飢餓海峡

飢餓海峡 (1965)

偶然に翻弄される人間の数奇な運命を、主人公の心の中に潜む善と悪を通して描き、みごとなスリラー形式の運命劇として内田吐夢の代表作となった。終戦間もない昭和22年。津軽海峡を襲った台風のため転覆した青函連絡船。だが収容した死体は乗客名簿より2名多かった…。.

公開日
1965-01-15
TMDB
7.3 / 10 (50)
上映時間(分)
3時間3分
ジャンル
犯罪, ドラマ, 謎
監督
内田吐夢

キャスト

豆知識

『飢餓海峡』(きがかいきょう)は、水上勉の推理小説。

制作

エンドクレジットにはないが、当時東映東京撮影所(以下、東撮)所長だった岡田茂(のち、同社社長)の企画。東映京都撮影所(以下、京撮)で時代劇『大菩薩峠』や『宮本武蔵』のシリーズ作品を撮り続けていた内田に「東撮で現代劇を撮ってもらいたい」と切望したのが映画『飢餓海峡』の企画の発端であった。当時東映は時代劇は京撮で、現代劇は東撮で撮影されていた。1961年9月、東撮所長に就任した岡田は当たる映画が一本もなかった同撮影所を“現代アクション路線”で復活させ、さらに『人生劇場 飛車角』『五番町夕霧楼』『王将』とヒット作を連打し、意気軒昂の岡田が東京オリンピックの行われる1964年に向けて、目玉作品として腐心の末決定したのが水上勉原作で当時単行本として出版されたばかりの『飢餓海峡』の映画化であった。

大川はプログラムピクチャー二本立ての低予算主義をとっており、本作品は「金がかかりすぎる」という理由で一度東映に断られている。しかし内田の息子と阿部征司が、実際よりも安く済むように見せかけた予算表を提示して制作にこぎつけた。

脚本、撮影ともに難航、岡田の後、東撮所長として赴任した辻野は、北海道、東北地方での長期に渡る地方ロケ、および「W106方式」(後述)による撮影の障害などを考慮した莫大な予算の編成、獲得に活躍したが、半年後の1964年8月本社に転勤した。辻野の後は今田智憲が東撮所長に赴任と、期間中所長が三人も変わるという不安定さで、撮影所内が混乱し東撮も労使闘争を生んだ。今田は当時40歳、岡田と並び将来の東映を担うと当時評価されており、大川社長は、岡田と今田を東西の両撮影所所長に据えて、東映の新たな時代を築こうとしていた。

脚本の鈴木尚之は、1963年に全て岡田からの指示で『人生劇場 飛車角』(別人名義)『人生劇場 続飛車角』(相井抗名義)『武士道残酷物語』『宮本武蔵 二刀流開眼』『五番町夕霧楼』『おかしな奴』と6本の脚本を担当。以降、岡田のプロデュース作品に起用され、脚本は全て岡田と話し合いを重ねて完成させた。これらのハードな仕事をこなした信頼から岡田に本作の脚本に抜擢され、代表作とした。鈴木はこの後、巨匠たちから脚本指名を受けるようになり、「巨匠キラー」と呼ばれるようになった。「巨匠キラー 鈴木尚之」を作り出したのは岡田だった。

ヒロイン・杉戸八重役には岡田が佐久間良子を推し、内田も了解した。しかし、岡田が京撮に戻ると内田が左幸子に変更した。「皮膚の表面でこの悲しい女を知っているのではなく、もっと深いところで理解するためには左幸子しか出来ない」と話した。また岡田は三國連太郎を嫌っていたため、三國の主役なら撮らせたくないと内田に伝えたが、内田が「これは三國以外にやれる人間はいないから、三國でなければ俺が降りる」と押し切った。三國は小林正樹監督の『怪談』と自身のプロダクション作品『台風』と3本の掛け持ちとなった。戦後日本映画に於いて偽善に満ちた悪漢を演じさせたら三國の右に出る者はいない。また高倉健の起用も内田の意向という。高倉は今日のイメージにないよく喋る若い刑事を一本調子で演じる。函館署の弓坂刑事役は、最初は原作の剣道の達人として描かれた力強さをイメージし、小杉勇がキャスティングされていたが、スケジュール調整が付かず。

Wikipediaで続きを読む · テキストはWikipedia、CC BY-SA 4.0。データはWikidata。

おすすめ