温泉 あんま芸者

温泉 あんま芸者 (1968)

ちょっとばかり サービス過剰よッ!

ここは、とある温泉街。お徳という女将がキリモリする、あんま芸者の置屋・浜中。“今夜も特技でガッチリ稼げ”との合言葉で進軍したのは、超ボインの富丸、セックスアピール抜群の雛奴、処女膜手術の好きな蔦子、股にカニの刺青をほどこした玉栄、おスペのうまい梅子、ヌードが売りのすみ、そして現役処女の純情可憐な千代・・・と、選り取りみどり。そんなセクシーあんま芸者たちが集まれば、ピンク色の事件が勃発するのもあたり前!野球拳ストリップ大合戦、ブルーフィルム隠し撮り事件、ナマグサ和尚の性狂育事件などなど、毎日がテンヤワンヤのセクシー・ラッシュ!これはもぅ、たまらない!!

公開日
1968-06-28
TMDB
3.4 / 10 (5)
上映時間(分)
1時間32分
ジャンル
ドラマ
監督
石井輝男
シリーズ
Hot Springs Geisha Collection

キャスト

豆知識

『温泉あんま芸者』(おんせんあんまげいしゃ)は、1968年の日本映画。製作:東映京都撮影所、配給:東映。公開時はR-18(成人映画)指定だったが、2019年の再審査ではG指定となっている。

製作

企画、及びタイトル命名は岡田茂東映京都撮影所長兼企画製作本部長。東映ポルノのタイトルは本作も含め全て岡田の命名といわれる。"くノ一もの"、"㊙もの"など、一連のエロものでヒットを飛ばした岡田が、石井輝男を招聘して製作した『徳川女系図』に続き、石井のためのエロ企画として用意したのが、大映が1963年から1964年に製作して人気を博した"温泉シリーズ"をパクった"温泉芸者もの"であった。"東映温泉芸者シリーズ"は、ハレンチ度も女優の悩殺度も大映版とは比較にならない程で、当時の映画誌に「東映『温泉あんま芸者』のピンクなることの表面に押し立てること、大映の『温泉芸者』の頃とは考えられなかった内容で、時勢が大きく変わったことが感じられる」と評された。これまでも成人指定を受けたメジャー作品はたくさんあったが、それらの性愛描写は間接的な表現が大半で、女性の裸や濡れ場がたくさん出るということではなかった。

『徳川女系図』でフンドシ女優が話題を呼んだため、最初に岡田の付けたタイトルは『温泉ふんどし芸者』であったが、映倫からクレームで、『温泉あんま芸者』に変更した。すると大映の斉藤米二郎プロデューサーが「ウチの『温泉芸者』と『温泉あんま』をミックスしただけじゃないか」とこれまたクレームを付けた。温泉あんま芸者は今日失われた風俗とされるが、1957年の売春防止法施行と1958年の赤線廃止で、職場を失った娼婦たちが全国各地の温泉場で芸者やマッサージ嬢に身をやつし客室に入り込み、自由恋愛という名目で正当化された脱法行為を行った娼婦のことで、高度経済成長期に団体旅行がブームになり、男の遊び場として企業や町内会、商店街など、温泉観光地への男だけの団体旅行が盛んに実施され、宿泊地のニーズとして温泉あんまは増えていた。

"不良性感度"を標榜する岡田の、エロ映画への最初のアプローチは「東映任侠路線」第一作『人生劇場 飛車角』とさほど時期が変わらない1963年11月公開の『五番町夕霧楼』であった。以降エロ映画の製作を単発的に続け、「東映好色新路線」としてエロ映画を大手映画会社で初めて路線化する方針を打ち出したのは1965年のことだった。しかし役者に出演を嫌がられるなど思うように路線化は進まず。1965年の段階で企画に挙げていた『大奥㊙物語』が1967年11月に公開され大ヒットしたため、ようやく路線化する態勢が出来た。

石井輝男は1965年に『網走番外地』の第一作を撮った後、東映の慰留に応じずフリーになっており、以降東映とは本数契約だった。このため当時の監督料は脚本・監督料込みで一本200万円だったとされる。本作と同じ年に岡田が『不良番長』を始めようとした際に、監督にやはりフリーの井上梅次の招聘を決めていたら、吉田達プロデューサーが「井上さんだと演出250万円、脚本150万円の計400万円とられますよ。本部長は2400万円で作れって言いますけど監督に400万円も取られたら出来ません。(東映)社員の野田幸男なら15万円で済みますよ」と進言し、岡田が「よし、じゃあ野田でいけ」と監督が野田に変更になったという笑い話があり、石井の監督料200万円は当時としては高額のギャラだった。当時、鶴田浩二で年間6本で2000万円、高倉健がギャラ闘争で三年間無契約後の1967年秋に、一本450万円とされる契約を勝ち取ったところだった。

東映の専属女優は思ったように脱いでくれないため、岡田はピンクプロダクションのヌード専門女優を大量に引き抜き、1968年5月公開の『徳川女系図』に起用した。当時映連が「日本映画の不振の原因はピンク映画が巷に溢れているからだ」と「ピンク映画一掃!」の旗印を掲げていた矢先に、邦画五社の先鋒である東映が外注のピンク女優をトップスターから脇役まで引き抜いて裸にするというゲリラ戦を展開したため、映連としても上げた拳のやり場に困り、ピンク業界はカンカンに怒った。このような岡田の好き放題を大川博東映社長が何故咎められなかったのかというと、岡田が1964年2月に東映京都撮影所所長に復帰する際、大川から「京都がガタガタになりそうだからお前が京都に行ってくれないと東映そのものがおかしくなる」と言われ、「それならすべて私に任せて下さい。荒治療しますけどいいですね」と大川から指揮権移譲の承認を取り付け、京都撮影所所長に就任した経緯があり、東映京都作品の企画の全ての決定権を持たせていたため大川も口を出せなかった。

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