赤い鳥逃げた? (1973)
A young outlaw can’t escape his rebellious past despite connections to a well-to-do family.
キャスト
豆知識
『赤い鳥逃げた?』(あかいとりにげた)は、藤田敏八監督、原田芳雄主演の1973年公開の日本映画。日活出身の藤田敏八が日活以外ではじめて監督した作品。東宝の奥田喜久丸のプロデュースで製作されたものの、外部監督の起用に反発する東宝の撮影所組合が協力拒否を打ち出したため、東宝撮影所を使用することができず、スタッフも藤田敏八の人脈で集められた寄せ集め集団で、奥田によって「グループ法亡」と名付けられた(「法亡」は「渡り労働者」を意味する英語のHOBOに漢字を当てたもの)。なお、日活の契約助監督だった長谷川和彦がチーフ助監督を務めており、脚本の改稿にも関っていたことが知られている。
製作背景
本作の製作は、監督の藤田敏八と脚本のジェームス三木の交流に端を発する。三木によれば、藤田と三木は俳優座養成所の同期で、藤田のデビュー作『非行少年 陽の出の叫び』を見て感心した三木が長い手紙を書いたのがきっかけで「一緒に映画を作ることになった」という。またプロデューサーの奥田に藤田を紹介したのも三木で、奥田によれば1969年頃の年末、東宝のクリスマス・パーティーで紹介されたという。その後、藤田から奥田に電話があり、東宝撮影所の入り口で待ち合わせることに。間もなく「ボロボロのトヨタ・コロナ」を運転して現れた藤田は奥田を助手席に乗せると「一寸これを見て下さい」と後部座席を示したという。そこには古い脚本や本、シャツ、下着などが山積み。聞くと「今日カミさんに追い出されました」という。そして「この瞬間に私はパキさんにはまったのである」。
こうして、奥田製作、藤田監督、ジェームス三木脚本による新作が企画され、紆余曲折を経て脚本も完成。どうにか東宝本社のOKも出たものの、当時、東宝撮影所で他社の監督に仕事をしてもらう場合は、東宝の監督会と従業員組合の承諾が必要という不文律があったという。この時の監督会のリーダーは西村潔で、早速、奥田は西村に承諾を求めたものの、西村は「東宝の作品に東宝の監督を使わないのは不都合である」と承諾を拒否。さらに藤田組を撮影所に入れるかどうかをめぐって撮影所組合で投票が行われ、反対50、賛成49、棄権1の1票差で協力拒否が決議され、東宝撮影所の使用が不可能となった。こうした結果となった背景には、東宝が専属監督19人に対し「観客動員不振は今いる監督が無能のためである」として次期監督契約破棄(フリー化)を通告し、それに監督会と助監督会が激しく反発するという東宝の社内事情があったとされる。
また脚本をめぐってもトラブルがあった。三木によれば、話し合いの中で藤田は「起承転結なんてくそ食らえだ。俺は自由で新しい感覚の映画を作る」と抱負を述べており(ジェームス三木の表現によれば「気炎を上げた」)、意識していたのもゴダールの『気違いピエロ』やトリュフォーの『突然炎のごとく』だったという。三木はできるだけ藤田の言い分を受け入れ、タイトルも『青い鳥を撃て』として「前衛的な脚本を書いたつもりだった」。ところが藤田は「腹心の助監督長谷川和彦と二人で、めちゃくちゃに脚本をいじくり回し、タイトルまで「赤い鳥逃げた?」と変えてしまった」。そのため、藤田と三木は大喧嘩となり、仲直りするのに数年かかったという。なお、主人公三人が警察の一斉射撃で亡くなるという結末は『シナリオ』1973年1月号に掲載された「未定稿」や『キネマ旬報』1973年3月上旬号に掲載された「あらすじ」とも異なっており、製作現場でのアドリブだった可能性がある。それを裏付けるように奥田が面白いことを書いている。
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