あゝ決戦航空隊 (1974)
特攻隊生みの親・大西瀧治郎中将の生涯と共に、その全貌を描いた一大実録戦争巨篇。如何なる戦史にも類をみない特攻戦術が、どうして、誰によって生み出されたのか。そして、若者たちはこの命令にどのように服し、散っていったのか。
キャスト
豆知識
『あゝ決戦航空隊』(ああけっせんこうくうたい)は、1974年(昭和49年)9月14日に公開された日本映画。製作は東映(東映京都撮影所)、配給は東映。カラー、シネマスコープ。上映時間は163分。
製作
当時の映画会社には困った時の特攻隊という風潮があり、特攻隊の話は、戦後の"忠臣蔵現代劇版"とも言え、オールスターで役者が揃い、悲壮美もあってお客に受ける、「実録シリーズ」真最中の東映では必然的に挙がってきた企画であった。特攻隊ものは当時は自衛隊が実物の飛行機を貸してくれたから、比較的安く作れた。また東映の幹部・社長岡田茂や俊藤浩滋、高岩淡らは戦争映画が好きで、東映は古くからコンスタントに戦争映画を作ってきた。脚本の笠原和夫は『仁義なき戦い』シリーズ執筆前の1972年に「海軍特別攻撃隊」という本作と同じ題材の特攻隊映画を書いていて、小沢茂弘を監督に高倉健主演で1972年8月中旬クランクイン、同年11月第一週の公開を目指して製作を進めていたが、笠原が盲腸で脚本が遅れ、製作延期の後、高倉が鶴田浩二との共演を渋り企画が流れた。
東映社長の岡田茂は、1974年5月のインタビューで、本作の製作を決めた理由を「大西中将は人間として凄く魅力があるし、彼の死によって徹底抗戦を主唱した厚木航空隊の青年将校が思い止まったという歴史的な秘話もあって、従来の戦記映画にないドラマが出来ると思ったからなんだ。戦争に若い人は興味がないというが、これは当たるよ」と話している。また「東映カラーはこれからも原則的には"不良性感度"を基調にしてゆくことには変わらない。ただ、時折は"善良性感度"の強い作品を作る。この8月に公開を予定している『あゝ決戦航空隊』、これは特攻作戦を断行した大西瀧治郎中将のハナシだ。特撮と鶴田浩二、高倉健ほかのオールスターでつくろうと考えている。不良性では馬鹿当たりはまずありえない。それを狙うとすれば"善良性感度の企画"を考えにゃいかん時代に入ってきたね」と話した。
本作は『仁義なき戦い』シリーズの第五部『仁義なき戦い 完結篇』や、『実録共産党』と製作時期が重なる。笠原和夫は「仁義なき戦い」シリーズの第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』の脚本を書き上げた後、岡田社長から「もう一本書いてくれ」と頼まれた。しかし安すぎるギャラ(「仁義なき戦い」シリーズ1本120万円)に不満で、第五部のギャラアップを深作欣二監督と共闘を約束し、認めないなら第五部はやらないと申し合わせていた。しかし1974年の正月に岡田社長に挨拶に行った深作が岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」と言われ、「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった。深作が笠原に電話で謝まってきたが、もう笠原は本作『あゝ決戦航空隊』の脚本に取り掛かっていてこちらに思い入れがあり「仁義なき戦い」シリーズは『仁義なき戦い 頂上作戦』で終わっていると『仁義なき戦い 完結篇』の脚本を降りた。笠原の方はこのギャラ闘争が実り、本作のギャラは150万円にアップした。
脚本の下敷きになった、原作の草柳大蔵『特攻の思想』は映画製作直前の1972年に文藝春秋から刊行された大西瀧治郎の思想を扱ったノンフィクションで、非売品ではない書としては大西の最初の伝記とされる。草柳は執筆した動機について「"特攻に送られた若者の手記"が陸続と刊行される中で、"特攻に送った側の論理"が公開されていないことに疑問を持った」と述べている。当時"特攻に送られた若者"の遺稿集などが立て続けに刊行される戦記ブームがあり、草柳の書は特攻の遺稿集に対するリアクションとして書かれた。『特攻の思想』は、大西を「航空特攻の創始者」と捉えるというより、海軍内部で発案された特攻作戦を受け入れ、その実施を決定しなければならなくなったプロセスに着目し、特攻遂行に於ける大西の苦闘をテーマに据えている。シナリオは前半を野上龍雄が、後半を笠原が担当し、原作が追及した「特攻を送った側の論理」を映画的に、忠実に組み立てることによって、従来の戦争映画のシナリオと異なる趣きを持っている。
大西瀧治郎の伝記のため、笠原と野上は脚本執筆にあたり、まず児玉誉士夫に話を聞かなければならないと、児玉に近い岡村吾一を岡田に紹介してもらい、二人で児玉の許へ何度か通い取材を行った。ロッキード事件で児玉の名前が一躍世に出たのは1976年2月4日のことで、映画製作中は一般には”右翼の大物"、"政財界の黒幕"といった認識だった。戦時中の児玉機関による中国大陸での物資調達活動は、海軍航空本部の委託によるものであるが、大西は最後の海軍航空本部長であり、児玉をことのほか可愛がったといわれる。大西は終戦の御聖断が下った1945年8月15日夜に日本刀で自決するが、自刃の直後、児玉が駆け付け「私もお供します」と切腹しようとすると「君は生きろ」と大西に制されたという逸話がある。笠原と野上の取材に対して、特に児玉が眼を真っ赤にして語ったのは「敗戦時、天皇は人間宣言をしたのがまちがいである。まず第一に退位し、首都を去り、伊勢神宮の祭司になるべきだった。
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