ハウス

ハウス (1977)

まあ! おいしそうな娘たち!

夏休みを利用しておばちゃまの羽臼屋敷を訪れる“オシャレ”と6人の友人。だがおばちゃまはすでにこの世の人ではなく、戦死した恋人への思いだけで存在し続ける生き霊だったのだ。そして若返るためには少女を食べなければならない。ピアノや時計が少女たちを次々に襲い、羽臼屋敷は人喰い屋敷と化した……。

公開日
1977-08-26
TMDB
7.3 / 10 (854)
上映時間(分)
1時間28分
ジャンル
コメディ, ファンタジー, ホラー
監督
大林宣彦

キャスト

豆知識

『HOUSE ハウス』 は、1977年(昭和52年)7月30日に公開された日本の映画。製作は東宝映像、配給は東宝。カラー、スタンダード(パナビジョン)。上映時間は88分。監督は大林宣彦、主演は池上季実子。

製作

東宝が大林に制作を持ちかけたのは、大林が花形ディレクターとして多数のCMを東宝撮影所で撮っていたからである。大林は外様ながら、東宝にとっては精彩を欠く撮影所に収益をもたらしてくれるお大尽。当時のスポーツ紙に「コマーシャル界の天皇・大林宣彦」と書かれた記事も見ていた。大林に映画製作の話を持ちかけたのは、東宝映像企画室長の角田健一郎であった。時は1975年。新しい企画を探していて、東宝スタジオでCF撮影を行なっていた大林に目をつけていたという。大林はCMの世界では有名だったため、淀川長治が「大林さんみたいな人が映画を撮ってくれれば面白くなる」と話してくれたり、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』を観た世代が各企業の責任者になって、「大林さんを応援して日本映画を変えてやろう」というバックアップしてくれていた状況があったと述べている。

当時の映画界ほどフットワークの遅いところはなく、原作もない、ノースター+無名監督の映画が東宝の番線に簡単に乗るはずもなく、撮影所の助監督を経験していない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちも反対した。CM撮影では東宝撮影所にいつも出入りしていたのに、映画を撮るとなると話は別で、撮影所の入口ですれ違った恩地日出夫に「大林さん、ぼくらの職場を荒らさないで下さいね!」と釘を刺された。それに対し、「我々が映画を作っても、ヒットしない。ここは、外部の人にやらせて、どれだけのものができるかを知ろうではないか」と説得したのが、前年末に堀川弘通とともにフリーとなったものの東宝系監督としては依然重鎮であった岡本喜八であった。岡本が「後ろ向きに外部の才能を拒絶するのではなく企画のマンネリを打破するためにも自分たちも学ぶべきでないか。コマーシャル界の天皇がどういう映画を作るか見てみようではないか。

大林は映画評論で目にしていた桂千穂を趣味が合いそうな"女性"だと思い、桂に脚本を依頼。桂はウォルター・デ・ラ・メアの短編小説を基に、大林のアイデアをミックスさせて脚本を書いた。

1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされた。『キネマ旬報』1976年8月上旬号に以下の記事が載る(原文のまま)。

しかしすぐに製作開始とはならず、宙吊り状態が続いた。大林は映画化されるまでが一つの挑戦と考え、作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、『11PM』など積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことをやった。脚本の桂千穂は「大林監督の獅子奮迅の働きがあった。私は大林氏の活動ぶりを呆然と見てるしかなかった」と述べている。東宝には「映画化決定ではなくても、映画化と外部に発表していいか?」と聞いたら「結構です。いつでも中止を出せばいいですから」と言われた。大林を応援したいと考えた脚本家の小林竜雄は付き合いのあった『ムービーマガジン』の編集長・浦崎浩實に頼み、「新しい日本映画の波は大林映画から始まる!」というタイトルで『HOUSE』の特集を組んでもらった。

Wikipediaで続きを読む · テキストはWikipedia、CC BY-SA 4.0。データはWikidata。

おすすめ