冬の華

冬の華 (1978)

きみが倖せになるまで かげからでいゝ じっと見守らせてくれ………

関東ヤクザの一大勢力、東竜会幹部の加納は、東竜会を関西連合と合併させようと画策していた兄貴分の松岡を殺すはめとなり、まだ幼い松岡の娘・洋子の世話を舎弟の南に託すと、旭川刑務所に送られる。それから15年後、服役を終えて加納は出所するが、彼の不在の間に東竜会の連中はすっかり様変わりしていた。服役中、ブラジルにいる伯父と偽って洋子と文通していた加納は、すっかり美しく成長した彼女の姿を目の当たりにする。

公開日
1978-06-17
TMDB
6.5 / 10 (8)
上映時間(分)
2時間1分
ジャンル
犯罪, ドラマ
監督
降旗康男

キャスト

豆知識

『冬の華』(ふゆのはな)は、1978年(昭和53年)6月17日に公開された日本映画。製作は東映(京都撮影所)。監督は降旗康男。脚本は倉本聰。主演は高倉健。

製作

高倉健の仁侠映画の大ファンである倉本聰が、高倉出演の映画の感想等を書いた手紙を高倉に数年間送り、高倉から「いつか一緒に仕事が出来たら」と返事をもらっていた。そのうち、高倉にTBSからテレビドラマ出演のオファーが来て、それなら倉本さんに脚本をお願いできないかとなり、これが『あにき』(1977年10月7日~1977年12月30日)となった。高倉を慕う大原麗子が、倉本のドラマに多く出ていた関係で大原が段取りを組み、南青山の喫茶店「ウエスト」で倉本と高倉は初めて会った。『あにき』の撮影中に見学に来た俊藤浩滋に高倉が倉本を紹介し、俊藤が倉本に「何か一緒に映画をやらないか」と提案。本作の製作がスタートした。当時の高倉は前年の『幸福の黄色いハンカチ』で各映画賞を総なめ。倉本は当時、新しいテレビドラマの分野を切り拓く新進気鋭の脚本家という位置付けで、さらに横山博人監督の『純』、岡本喜八監督の『ブルークリスマス』と倉本脚本が相次いで映画化されていた。『冬の華』は22本目の映画化脚本となる。

1978年3月22日、京都嵐山の料亭で、高倉健、池上季実子らが出席し、製作発表会見が行われた。会見で「製作費5億円、撮影期間45日。明日(1978年3月23日)から鳥取砂丘でクランクイン、公開は6月上旬を予定している」などと発表があった。高倉は「これまでのもの(任侠映画)とあまり違わないが、倉本さんの文体が違うので、出来上がったものはかなり違ったものになると思う」と話した。

倉本は東映やくざ映画の筋金入りの大ファン。「昭和残侠伝シリーズ」で高倉が演じた"花田秀次郎"というヒーローがいなくなって、とても淋しいという想いが常にあり、しかし再登場させても二番煎じにしかならないし、どうしたらいいか考え、花田秀次郎がいなかった五、六年間は網走刑務所に入っていたのではないかと着想し『冬の華』の主人公・加納秀次は還ってきた花田秀次郎として造型した。また数年前から『あしながおじさん』をベースに脚本を推敲をしていて、本作に取り入れた。これらのプロットを高倉が北海道の倉本の自宅を訪ねて来た際に話すと、高倉もノッてくれた。その後も喫茶「ウエスト」などで高倉と会い話を詰めた。高倉はあまり喋らないが、高倉からジャン・ギャバンやアラン・ドロンの出るフランスのフィルム・ノワールのような雰囲気にしてほしいと要望があった。倉本は本作の脚本執筆中に勝新太郎と京都祇園で飲んだ時、勝から「菅谷政雄の伝記を書いてくれ」と頼まれた。

倉本が『冬の華』というタイトルで東映に脚本を提出したが、岡田茂東映社長が「『冬の華』では客が来ない」と、『網走の花嫁』、もしくは『網走の天使』にタイトルを変更しようとした。これを知った倉本が「では、脚本を返してください」と怒った。当時の倉本と高倉の仲では、倉本に脚本を返してしまうと高倉の出演もなくなってしまう恐れがあった。また当初はヒロインに山口百恵が予定されており(詳細は後述)、彼女と、『幸福の黄色いハンカチ』で各賞を総なめにした高倉の競演ならば確実にヒットが予想されていた。そのような背景もあって、高倉の古巣である東映では「絶対に高倉で映画を作れ」との指令が出ており、倉本の言い分を全部呑まなければならないという状況が生まれた。

監督は山下耕作の予定だったが、初顔合わせのとき、倉本が山下に「このシナリオを映画化するに当たっては、セリフの一字一句も変えないでください。もちろんト書もです。少しでも変えたら引き上げます」と言うので、山下が「ふざけるな、こんな脚本家とできるか!」と激怒し降板した。京都撮影所内ではこの話がすぐに知れ渡り、「さすが将軍や!」と撮影所内は山下への賛辞で満ち溢れた。一方、断った山下本人は以上とは少し違ったことを述べており、断った理由は『冬の華』の題名の変更を一字一句許さない倉本聰の生意気さに立腹したからだという。脚本自体には文句がなく、タイトルの件がなければ引き受けていたとのことである。また、山口百恵とは仕事がしたかったので、出演が実現していたら監督をやったと述べている。

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