加藤隼戦闘隊

加藤隼戦闘隊 (1944)

昭和16年、新鋭戦闘機「隼」が配備された広東飛行基地加藤健夫部隊長が着任。加藤隼戦闘隊の華々しい活躍が始まった。マレー敵前上陸の大船団の援護以降激戦を経て、勇猛果敢な加藤隼戦闘隊の名は世界を震撼させてゆく。

公開日
1944-03-09
TMDB
7.0 / 10 (4)
上映時間(分)
1時間50分
ジャンル
戦争
監督
山本嘉次郎

キャスト

豆知識

『加藤隼戦闘隊』(加藤隼戰鬪隊、かとうはやぶさせんとうたい)は、1944年(昭和19年)に公開された東宝製作の映画。山本嘉次郎が監督を務め、陸軍省後援・情報局選定の国民映画として9日に封切り公開され、1944年に最も興行成績を上げた大ヒット作となった。スタンダード、モノクロ。

製作

本作品は陸軍省報道部、陸軍航空本部、各陸軍飛行学校、各基地の全面協力のもとに製作され、映画に登場する軍用機は、この映画のためだけに大半のシーンで実際に一式戦「隼」を始め、九七重爆、九七輸、九七戦といった実機を飛ばし、また敵連合軍機役のF2A、P-40、ハドソンなどは、実際に太平洋戦争で鹵獲された実機が日本軍機と同じく映画のために用意され撮り下ろしされリアリズムに徹している。なお加藤時代の装備機は「隼」一型(キ43-I)であったが、映画では撮影の都合により二型(キ43-II)が主に、また「鍾馗」が敵機役として少数使用され遠景シーンに登場している。映画序盤の僅かなアクロバット飛行シーンのみ同じ東宝映画の『翼の凱歌』(1942年、山本薩夫監督)から流用され、また当時南方戦線で航空部隊の記録映画を撮影していた村田武雄による「隼」部隊の現地映像も数カット提供を受けているが、大半は『加藤隼戦闘隊』のオリジナル映像である。

さらに帝国陸軍は本作品の空中撮影用に偵察機、爆撃機、戦闘機計3機を提供。高度6,000mでの空中戦撮影では、三村明カメラマンが夢中になって撮影機の窓から半身を乗り出してしまい、これを山本監督が必死になって押さえるという一幕もあった。第64戦隊が空中掩護したパレンバン空挺作戦も再現され、陸軍空挺部隊の降下・戦闘の各描写が丹念に当映画のため撮影されている。このパレンバン空挺作戦の撮影には、陸軍の意向で30台の撮影カメラが動員され、カメラマンは画面に映っても支障のないよう挺進兵の降下服姿でこれを行った。カメラ30台を持ちだされた東宝撮影所は、このため一時他の作業がすべて止まってしまったという。

重爆隊によるラングーンのイギリス空軍飛行場と港湾の空爆描写は、円谷英二の特撮にて迫力をもって再現されている。特に、飛行場爆撃の地上シーンでは、リアルな造形の格納庫や地上設備(ミニチュア撮影)が続々と爆撃で粉砕されていくそのすぐ横を避難する英軍将兵の集団を、「移動マスク合成(トラベリングマット合成)」により、極めて完成度の高い合成映像に作り上げられていることから評価も高い。円谷ら特撮班は、本作品のためにこの「移動マスク合成」の技法を開発し、日本初となる本格的導入を行った。「爆発する格納庫の手前を逃げる将兵」といった画面は、合成の向山宏がフィルムを青と赤に染め分け、人物一人一人のマスク(黒く切り抜いた部分)を作りはめ込んだものであるが、当時の資材としては非常に手間のかかるものだった。しかし本作品で東宝特撮班の合成技術は飛躍的に発展することとなった。また、ミニチュアと実機を同一画面に収めることで、実際の距離以上に遠近感を感じさせる手法もとっている。

助監督として参加した本多猪四郎は、後に『ゴジラ』など多数の特撮作品で組むことになる円谷と本作品で初めて出会った。本多は、円谷が手掛けた『ハワイ・マレー沖海戦』に感銘を受け特撮に興味を持ったことから、現場では撮影よりも特撮についての質問を円谷にしていたという。本作品について本多は、『ハワイ・マレー沖海戦』ほどの評価は得ていないが、美術や火薬の技術などは向上していると評している。一方で、円谷が撮影ステージの広さや美術の素材、操演の技術などに満足していなかったことも証言している。本多は、前年に出兵していた中国大陸から帰還し、本作品で映画の現場に復帰していたが、本作品完成後再び招集を受け、終戦まで中国で過ごすこととなった。

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