徳川家康

徳川家康 (1965)

戦国時代の悲しい定めから、今日は今川、明日は織田と、他家の人質となって流転の運命を歩んだ徳川家康の前半生を、巨匠・伊藤大輔が豪華キャストを得て描いた時代劇巨編。

累代岡崎を拠点にしてきた松平家は、東の今川、西の織田両勢力から圧力を受けていた。嫡男・竹千代(後の家康)は母・於大の実家が織田方についたため、幼くして母と別れることとなった。岡崎を織田の進撃を食い止める要衝と見た今川義元は、竹千代を人質とすることを伝えるが、竹千代は、途中今川支配から脱した戸田一族によって尾張へと送られる。竹千代が織田に捕われたことで、於大は息子の姿を垣間見ることができた。それは竹千代に肉親のような愛情を抱く吉法師(後の信長)のおかげでもあった。三年後、ようやく岡崎の土を踏んだ竹千代だが、三河が今川家統轄となり、今度は駿府へ送られることとなった。十年の月日が流れ、竹千代は元信と名を改め義元の姪・瀬名と婚儀を結ぶ。一方、信長は織田の若き領主となっていた。そして永禄三年。義元は四万の大軍をもって信長攻めを開始し、元信は先陣を申し付けられる。

公開日
1965-01-03
TMDB
8.4 / 10 (5)
上映時間(分)
2時間23分
ジャンル
ドラマ
監督
伊藤大輔

キャスト

豆知識

『徳川家康』(とくがわいえやす)は、1965年(昭和40年)1月3日に公開された日本の時代劇映画。山岡荘八の小説『徳川家康』の映画化作品。カラー(富士フイルム総天然色)、シネマスコープ(2.35:1)、143分。映倫番号:13731。製作:東映京都撮影所、配給:東映。監督・脚本:伊藤大輔。

製作

企画は東映京都撮影所(以下、東映京都)所長・岡田茂。当時の東映の時代劇はあまりお客は入らなかったが、大映の時代劇はお客を集め、テレビの『隠密剣士』や『三匹の侍』などは圧倒的人気で、特に『月光忍者部隊』や『風のフジ丸』などの忍者ものは漫画にまで普及して大きな人気を集め、1965年は時代劇のピークが来るのではと予想する映画関係者もいた。岡田は大映に対抗するには東映のオールスター映画を復活させて口火をつけようとテレビで放映中の『徳川家康』の映画化に踏み切った。『徳川家康』は数年来ブームを呼んでおり、吉川英治の『新平家物語』以上の読者を持ち、現代経営者から、学生、サラリーマンと、老若男女すべてに必見の書といわれていた。各映画会社とも映画化を企画していたが、山岡荘八が映画化をOKしなかった。山岡は「まだ小説が継続中に映画化されてはテーマを全く別の視覚からバラバラに切りさいなまれるようなもの」などという持論をもっていた。

1964年2月1日、大川博東映社長が社の大巾な機構改革と、それに伴う人事異動を発表し、製作の中心が明確に現場に移され、東西撮影所所長の権限増が明確にされた。人事の目玉が東映東京撮影所(以下、東映東京)を現代劇で軌道に乗せた岡田取締役の東映京都所長復帰であった。これは東映の表看板である時代劇の復興を岡田に託すという大川の肝煎りプロジェクトだったため、岡田には直接の指揮権が移譲された。またこの人事で東映創立以来の満映閥、東急閥などが脇に回され、さらに1964年9月30日、東映が東急グループから離脱し、同日付けで東急から出向していた東急系の役員、五島昇非常勤取締役を始め、小滝顕忠、山崎季四郎、伊勢憲三郎の他、伊藤義、吉田信、薦野直実、東映フライヤーズ代表・石原春夫ら、重鎮幹部がごっそり辞職した。これにより大川の御意見番はいなくなり、岡田にとっては兄貴分の五島とは表立って付き合えなくなったが、上がかなり減って、思い切って腕を振れるようになった。

北大路欣也は当時、東映の青春路線の担い手だったが、岡田は「北大路の個性を生かした作品をと狙い過ぎていたのかも知れない」との反省があり、随時、時代劇に起用する計画を立てた。また当初は三田佳子もキャスティングされていたが出演しなかった。三田は佐久間良子が『五番町夕霧楼』で一気に東映の看板女優になると同じ東映京都の廓もの『廓育ち』を演じて演技開眼と騒がれ、ライバル意識を明確にし、映画業界から「あれほどライバル意識を燃やしているライバルもない。リッパだ」と褒められた。当時の各社人気のバロメーターといわれた映画会社のカレンダーに、東映は1965年度版に女優では佐久間と三田だけ単独での起用を決めると先輩の佐久間がクレームを付け、佐久間が正月、三田を九月に変更し、佐久間が矛を収めた。三田の抬頭は佐久間を緊張させた。東映は三田の将来性を大いに買って、一気に売り出そうと『赤いダイヤ』『仇討』の後、オールスター正月大作に起用を予定していた。

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