空海 (1984)
日本に壮大な思想と文化を広めた偉大な宗教家、弘法大師空海の波乱の生涯を雄大なスケールで描いた歴史超大作! 四国に生まれた佐伯真魚(まお)。天才にして勤勉家、大学での勉学に飽きたらず、山林での過酷な修行に励んで仏教に開眼した彼は、名を空海と改め、遣唐留学生として唐へ。密教の頂点に立つ恵果阿闍梨と師弟関係を結び、20年はかかると言われる真言密教のすべてを3ヶ月で授かる。そして渡唐から2年後、死を賭して帰国した空海は、やがて日本中を旅しながら身を持ってその教えを広めていった。
キャスト
豆知識
- 撮影地:京都市, 高野町, 奈良市, 善通寺市, 西安市, まんのう町ほか1件
『空海』(くうかい)は、1984年(昭和59年)4月14日公開の日本映画。製作・配給は東映。カラー、ビスタサイズ、ドルビーステレオ、映倫番号:111185。上映時間は179分。監督は佐藤純彌、主演は北大路欣也。
製作
本作品の製作クレジットは高岩淡、中村義英とするものが多いが、実質は東映社長の岡田茂と全青連である。高岩・中村は、それぞれ資金を分担した東映と全青連からそれぞれ組織の代表者として名を連ねているだけである。またプロデューサーとしてクレジットされている上村正樹、坂上順、佐藤雅夫、斎藤一重のうち、上村は全青連、他の3人は東映の社員で、それぞれ所属する組織が企画立案した作品の製作現場に配属された形となっている。その仕事はシナリオ作成時にブレーンとして参加し、そのシナリオに基づいて予算を組み、その枠内でスタッフと契約、俳優の出演交渉をし、対外折衝や製作時に起こる種々の問題処理を行うものであった。
1980年に真言宗の十八本山の若手僧侶が全青連を組織し、その統一見解として空海の映画を作りたいと製作が始まった。
岡田裕介が監督に増村保造を迎え、脚本・早坂暁で製作を進め、1982年夏に監督・増村保造、主演・北大路欣也と最初の製作発表があった。しかし早坂が体調を崩し入院し、脚本が遅れたため、他のキャスティングができなかった。当初は1982年秋に撮影を開始し、1983年7月に中国ロケを行い、8月に撮影を終了させ、1984年4月14日に公開するという予定であった。しかし1982年中に撮影に入れず、今度は1983年5月クランクインと報道もされ、この時も監督・増村保造と発表していたが、クランクインされず。実際は増村は1982年に降りたと見られ、佐藤純彌が東映京都撮影所で1982年12月から1983年1月の間に『人生劇場』を撮っているときに、岡田に急に呼び出され、「お前、『空海』やれ」と言われ「はあ?」と監督を交代した、と佐藤は話している。中国ロケがあることなど諸般の事情で佐藤に変更になったといわれる。
早坂は当初、「"空海、七つの冒険"みたいなことをやろうか」と構想を立てていたが、体調を崩したこともあり、なかなか脚本が上がらず、佐藤らで司馬遼太郎原作の『空海の風景』を基本にして脚本の枠をまとめた。全青連の中村義英本部長は「映画とはいえ、おもしろおかしくては困りますので、私たちも製作に関わらせていただいております」と牽制、脚本の段階で「あまり生なましい表現は避けてほしい」「全面的に削除して下さい」などの要請があった。
主役は最初に勝新太郎が挙がっていたが、「空海を演じる人は身辺のきれいな人。いろんな先入観を持たれている人では困る」との要望が全青連から出され、主役は北大路欣也になった。勝は当時、"事件屋"のイメージが付いていた。妖しくも絢爛たる炎の女・薬子を演じるのは小川真由美。当初の脚本では男女の営みも面白く書き込んであり、小川はそこが気に入っていたが、スポンサーの意向でカットされたという。
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