神戸国際ギャング

神戸国際ギャング (1975)

高倉健&菅原文太、宿命の対決!明日なし、義理なし、涙なし・・・命知らずの男たちの激烈なアクションドラマ!

ジャズ、銃声、GI、闇市・・・殺しと略奪が支配する非情の街、神戸。敗戦後間もないこの無法地帯に、雑草のごとく誕生したギャングの一団があった。横暴を極める極悪人たちを震え上がらせるこの一味が、その日限りのマシンガン、カービン銃、ハジキ、バズーカ砲をブッ放し、非情なまでに暴れまくる!

公開日
1975-10-14
TMDB
5.7 / 10 (6)
上映時間(分)
1時間38分
ジャンル
犯罪, ドラマ, スリラー
監督
田中登

キャスト

豆知識

『神戸国際ギャング』(こうべこくさいギャング)は、1975年10月14日に公開された日本映画。

製作

主人公・団のモデルとなった菅谷政雄は、東映のプロデューサー・俊藤浩滋の幼なじみであった。菅谷は出所したら、その足で映画を観に行くほどの映画好き。プロデューサーになった俊藤から勧められた映画は、何を置いても道頓堀の映画館に駆け付けていたという。菅谷が「オレ、映画を一本つくりたいんのやがなあ」と顔を輝かせ、俊藤に『笠の台』というタイトルのヤクザの話を提案した。

本作は「実録路線」がファンに飽きられてきたため、東映がそれに代わる企画を模索中に製作された1本である。『読売新聞』夕刊1975年9月26日付けの記事で、俊藤は「型破りな"仁きょう映画"をめざす」「全く新しいパターンの作品を狙った」などと話しており、製作時の文献に本作を「実録映画」と紹介した記事は見つからない。最初の企画書に書かれたタイトルは『ギャング』だった。東映も本作は「実録映画」ではなく「ギャング映画」と告知した。岡田茂東映社長は1975年8月27日にあった東映1975年下半期のアウトライン発表で、正式に本作の製作発表を行い、「落ちるとこまで落ちたが、あとは浮上あるのみ。私が陣頭指揮を執る」と話し、この年の春から指示していたヤング路線を止め、再び暴力路線を復活させると宣言した。「実録」を銘打たれたものの、脚本家・松本功によれば「後半はほとんどウソっぱちの話になってしまった」。

俊藤浩滋プロデューサーは、岡田茂東映社長が推進する「実録路線」と衝突し、手掛けた映画も不振続きで、1974年の正月映画『ゴルゴ13』以降干されて、東映参与からこの年2月に岡田に一介の契約プロデューサーに降格させられ第一線を退いていた。俊藤が陣頭指揮を執るのは2年ぶりのこと。俊藤としては背水の陣で取り組む大作で、再起を賭けたものとなり、「新しいアクション映画にしたい」と、田中登の招聘を岡田に訴えた。俊藤としても子飼いの監督を差し置き、外部から監督を招聘するのは大きな冒険で、『㊙色情めす市場』『実録阿部定』など、日活ロマンポルノの田中作品を「すごい切れ味」と惚れ込んでの招聘だった。岡田もこれに賛同した。岡田は東映東京撮影所の所長時代に、鶴田浩二と高倉健を押し立てて「ギャング路線」を敷いたことがあり、ギャング映画が好きだったとされ、その後も時折、ギャング映画を作っていた。田中監督は「指名されて嬉しい。命懸けで撮ります」と決意を述べた。田中にとって、他社作品かつ一般映画として最初の作品である。

俊藤としても捲土重来を期す作品で、ヒロインを新人選考会で選ぼうとしたが、期待した女性が集まらず、何とか女優引退した娘・藤純子を担ぎ出そうとし、藤の女優としてカムバックなるかが注目された。藤は人を介して脚本も渡され、何も自分からは言って来ない父の置かれた状況も分かるだけに悩んだが、結局、梨園の妻が"女ギャング"ではマズいと判断し、「8月は歌舞伎が夏休みで菊五郎が家にいるため、とても無理」等と断った。藤の代役は真木洋子になり、真木のキャスティングの決定はクランクイン3日前だった。真木は「1972年のNHK朝のテレビ小説 『藍より青く』でお茶の間のアイドルになった」と一生言われ続けた人だが、「東映のヤクザ映画に出たくて出たくて」という希望が叶い東映初出演。真木は菅原の大ファンで、菅原も真木のファン。『実録飛車角 狼どもの仁義』の相手役を真っ先にオファーしたほどで、スケジュールが合わず、ようやく両思いでの共演となった。

主人公と行動をともにする若者を演じたガッツ石松は、当時現役のプロボクサーで、公開時は世界ボクシング評議会(WBC)ライト級チャンピオンの座にあった。ガッツの現役時の映画出演作は本作が3作目。ガッツは「健さんのためなら死んでもいい」という程の高倉健の大ファンで、高倉との初顔合わせでは、汗ダラダラで一言も喋れずだった。

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