人生劇場

人生劇場 (1983)

女がいて男がいる。男がいて女がいる。

青成瓢吉は故郷を離れ、東京で学生生活を送っていた。学生運動に熱中していた瓢吉は、お袖と出会い愛し合うようになる。瓢吉は作家を目指していたが、ある日、女流作家を目指す照代と出会う。小説の懸賞で一席と二席を分け合った2人は、同棲生活を始める。

公開日
1983-01-29
TMDB
9.0 / 10 (1)
上映時間(分)
2時間18分
ジャンル
ドラマ
監督
深作欣二, 中島貞夫, 佐藤純彌

キャスト

豆知識

  • 原作:人生劇場

『人生劇場』は、1983年公開の日本映画。製作・東映京都撮影所、配給・東映。監督は深作欣二、佐藤純彌、中島貞夫。尾崎士郎原作『人生劇場』13度目の映画化。

製作

1981年1月に公開した『青春の門』のヒットにより、その原型といってよい本作が企画に取り上げられた。岡田茂東映社長は、早くから角川春樹事務所とのコラボで『汚れた英雄』/『伊賀忍法帖』を1983年の正月第一弾に、1983年正月第二弾として『人生劇場』の製作を決めた。1982年2月号の『映画ジャーナル』のインタビューで岡田は「『人生劇場』は異色キャストでまず話題にしようという作戦。1982年7月から製作に入り10月末の完成、ジックリ売り込もうという体制」と述べており、製作は1982年頭に決まったものと見られる。佐藤純彌は、本作の企画成立は1982年6月と述べており、『キネマ旬報』1982年8月上旬号には「東映が1982年6月公開した『鬼龍院花子の生涯』の久々のヒットに、任侠と女の色気のある企画を検討した結果、松坂慶子の"おとよ"で『人生劇場』を映画化、来年の正月第二弾として公開することにした。松坂は『佐久間良子さんも、藤純子さんも演じたおとよ"は、昔からやりたいと思っていた役でした。

深作は原作を学生時代から愛読し『人生劇場』を作りたくて映画監督を志したといわれる。1963年に沢島忠が『人生劇場 飛車角』を二本監督した後、根気が枯れたと言ったとき、芸者のお袖が戦後米兵と関係ができて、黒人の赤ちゃんを産むという『その後の人生劇場』という企画を当時、東映東京撮影所の所長だった岡田茂に提出して「そんなもんができるか!」とハネつけられたこともある。

松坂の先の発言は『人生劇場 飛車角』と『人生劇場 飛車角と吉良常』を指すため、東映は「残侠篇」を中心とした映画を予定していたものと見られるが、深作が野上龍雄に脚本を頼んだ1982年6月、尾崎士郎の遺族から「今迄『人生劇場』は、主として『愛慾篇』『残侠篇』が多く映画化されてきた。その結果『人生劇場』のイメージが大きく歪められてしまった。故人は『青春篇』を一番愛していた。今回映画化は、是非『青春篇』に限って欲しい。もし『愛慾篇』『残侠篇』を使用するなら、映画化には応じられない」という強い要望があった。尾崎が亡くなって、東映がヤクザ映画に変貌させたことで尾崎の遺族は腹を立てており、1968年の『人生劇場 飛車角と吉良常』で俊藤浩滋が版権を取りに行ったときも、かなりうるさくなっていたといわれる。

深作は「自分の青春に重なる『青春篇』だけで、充分映画になり得る」とこれを承諾し、瓢吉とお袖をメインに「青春篇」をやろうとした。このため松坂は"お袖"に変更になったものと見られる。しかし野上は「『青春篇』だけでは今の映画の素材としては不十分で映画にしにくい」「『青春篇』なんて何もない。満州に行くような」などと強い懸念を表明。尾崎の遺族の意思は固く、深作は「時代性とローカリティの中で大正ロマンを描きたい」と更に積極的な意見を野上に要求した。深作は1982年夏には『蒲田行進曲』の撮影もあり忙しく、頭の中は『蒲田行進曲』でいっぱい。ギリギリでも出来た『青春の門』の例もあり、気軽に構えていた。1982年9月初旬、野上は第一稿を書き上げたが「青春篇」だけではドラマとして中途半端なシナリオとなった。野上は深作の要望する「大正ロマンを描くべき時代性とローカリティ」を求めて、一ヶ月以上も日本中を探し回ったが、そのような場所はどこにもなく深作の構想は座礁した。

岡田社長から「東映には盆も正月もない。封切りに間に合わせろ」と催促され、『青春の門』が監督を二人で分担して上手くいったことから、監督を分担しオムニバス形式でやれないかという案が出た。鈴木則文や関本郁夫もその話に色気を見せ、七人の監督で演出する案もあったが、深作と仲のいい佐藤純彌がちょうど京都で『空海』を撮影していたため、岡田社長から「お前、手伝ってやれ」と頼まれ、岡田にはお世話になっており、深作の窮状を救うためこれを引き受けた。急ぎ野上の脚本改定を始め、佐藤、深作、プロデューサーで討論を繰り返したが、野上の言うように「青春篇」だけでは、どうしても現代の映画にならず、深作の意図する大正ロマンにするには、撮影場所の問題で不可能で、元々、東映は学生運動をメインとする「青春篇」では面白くないと判断していたため、結局、東映が尾崎の遺族と話し合い、「愛慾篇」「残侠篇」の使用を許可して貰うことになった。

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