くノ一忍法

くノ一忍法 (1964)

In Osaka during the Edo period, ruler Sanada Yukimura was in losing position, fearing Toyotomi's blood descendents would end, he impregnates one of five Shinano female ninja with the seed of Toyotomi Hideyoshi in hopes of continuing the bloodline. Princess Sen and the five female ninja escape from Osaka castle by blending in with the handmaidens. Lord Tokugawa Ieyasu who was supposed to rule all under the heavens was informed of this secret. So Ieyasu orders five samurai of the Iga Ninja clan (brought by Hattori Hanzo) to stop the Toyotomi bloodline by killing the Kunoichi ninja. An attack of ninja magic arts unfolds in a battle of the sexes.

公開日
1964-10-03
TMDB
7.1 / 10 (9)
上映時間(分)
1時間28分
ジャンル
アクション, ドラマ, ファンタジー
監督
中島貞夫

キャスト

豆知識

  • 原作:くノ一忍法帖

『くノ一忍法』(くのいちにんぽう)は、1964年(昭和39年)10月3日に公開の日本映画。東映(東映京都撮影所)製作、東映配給。主演は芳村真理、監督は中島貞夫。脚本は中島貞夫と倉本聰の共作。

製作経緯

東映の岡田茂プロデューサー(のち、同社社長)は、1962年の東映東京撮影所(以下、東撮)所長就任以降、世代交代を強烈に推し進め、それまでの大スターや大監督は次々東映を去った。1964年に東映京都撮影所(以下、京撮)に所長として復帰した岡田は京撮のリストラと平行して、任侠映画路線への転換を計っていたが、新人の育成を企図し、まだ助監督経験5年目の中島貞夫を監督デビューさせたのが本作である。中島は岡田の東大の後輩であった。中島は当時組合活動に熱心で鈴木則文たちと会社の批判ばかりやっていて、岡田との団交が何度ももたれた。「オマエ、能書きばっかりたれとらんと、企画の1本でも出さんかい!」と言われた中島は、とっさのことで、どうせこちらの企画が通るなずもないと茶化したつもりで、たまたま読んでいた「"くノ一忍法帖"なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた。

倉本聰が中島に連れられ京撮へ。初めて岡田茂に会った時の印象について「その柄の悪さ、体のでかさ、声の大きさ、てっきり本物のやくざだと思った」と話している。開口一番、岡田「お前か、中島の同級生ちゅうんわ」 倉本「は」 岡田「こいつ(中島)は働くのはよう働くが頭でっかちで大学の映研や。当る映画がちっとも判っとらん。それで面白い原作とって来てやった。山田風太郎の"くの一忍法帖"や。女という字を分解してくの一や。女忍者がセックスを武器に男の忍者と闘うんや。エロや!全編これエロ、やりまくりや。うちの女優をバンバン脱がす。全く新しい時代劇や。映倫が目え剥くシナリオ書いたったれ。全国の映画ファンを勃起させるんや。当るでぇ!これこそヌーヴェルヴァーグやでぇ!」と言われたという。

1964年当時は、大手映画会社がエロや残酷描写を扱い始めた時期だった。中島と倉本はそれらエロ映画のくくりに入るのは嫌で艶笑喜劇を考えた。しかし物凄い原作のエロ描写に中島と倉本は「照れずに書こうぜ」と励まし合いながら溜息をつき、東大美学科の教授が知ったら何て云うだろうと囁き合った。おおまかな箱書を中島が書き、残り大半は倉本が書いた。

企画を通す際には、岡田の前で監督か脚本家が本(脚本)を読む作業があった。面白くないと岡田は貧乏揺すりを始めて、読み終わったら即座に「中止だ!」と叫ぶ。途中で「最後はどうなるんだ?」と聞いて「何考えとるんや!」と中止させることもあったという。倉本は御前本読みがあると聞いてビックリ仰天。書くには書いたが人前で「忍法筒涸らし!」なんて読めるもんじゃない。結局ジャンケンで負けた中島が読むことになった。倉本は「岡田茂の御前本読みは一寸見事としか云いようがなかった。目を閉じ腕組みをし、汗を流しながら朗読する中島の本読みをじっと最後まで聞き終わるや、あすこはこうせい、あすこはもっと過激にせい、あすこはくノ一にヒイヒイ云わせい、ラストのつめは甘すぎるから三分の一くらいに削ってしまえ」などと何とも的確なダメ出し。この人の集中力と批評眼は天才であると感嘆した」などとその感想を述べている。倉本は、これが縁で「ニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない。

当時の東映の新人監督のスタートは全部白黒で1,000万円だったが、2,000万円のカラー作品として予算が組まれ、新人監督のデビュー作としては格別の条件だった。岡田は京都転勤前に東映東京撮影所で企画した『二匹の牝犬』が営業の猛反対を受け、カラーに出来なかったことを悔やんでいた。人物の出ない海辺で波に洗われる貝をワンカット撮るため知多半島まで行ったほど。しかし女優に裸になってもらわないといけないキャスティングは難航した。それまで京撮の作品は健全娯楽を謳う"明るく楽しい東映映画"のオンパレードで、女優が脱ぐなど革命的な出来ごと。京撮で若い女優を脱がせるのは初めてだった。当時はメジャー映画会社の女優が脱ぐなんて考えられない時代、話を持っていっても、断られることが多かった。東映以外でも女の裸が登場する時代劇はほとんどなかった。岡田の指示は他社から脱ぐ女優を連れて来るのではなく「(東映の)脱がない女優を裸にしろ」だった。アレを駆使して秘術を尽くすと聞いては、おいそれと話にノってくれる女優はいない。

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