わが青春のイレブン

わが青春のイレブン (1979)

Soccer movie.

公開日
1979-07-21
上映時間(分)
1時間41分
ジャンル
ドラマ
監督
降旗康男

キャスト

豆知識

『わが青春のイレブン』(わがせいしゅんのいれぶん)は、1979年7月21日に公開された日本の青春映画。主演:永島敏行・斉藤とも子、監督:降旗康男。家城プロダクション製作・東映セントラルフィルム配給。

製作

スポーツ映画はアメリカでは、特に1970年代から『ロンゲスト・ヤード』や、『がんばれ!ベアーズ』『ローラーボール』『ロッキー』『スラップ・ショット』『天国から来たチャンピオン』『インターナショナル・ベルベット 緑園の天使』『リトル・モー』『アイス・キャッスル』『パラダイス・アレイ』など、色々なスポーツに材を取って盛んに作られ、ヒット作や内容を評価される映画も多く、日本の映画会社もこれを真似て多くのスポーツ映画を製作した。東映でも1976年に当時の岡田茂社長が"健全喜劇・スポーツ映画路線"を敷いて、『ラグビー野郎』などを製作したが、ことごとくコケ、すぐに撤退し、日本ではスポーツ映画は当たらないが定説になっていた。このような状況下で、サッカーを主題とする映画の製作はリスキーであるが、製作が決まった経緯は1979年3月15日に東映本社8階会議室で行われた製作発表会見で出席者が話した内容で推察できる。

登石雋一東映企画本部長は「流通チャンネル、製作資金の問題で、真面目な作品をどう生かすかが課題だが、この作品のテーマに共鳴した西崎プロデューサーが資金を全額並びに音楽プロデューサーとしても全面協力されることになり、また家城監督を偲ぶ会、日本サッカー協会、清水晶氏ら故人の多くの友人の協力で映画化が決定しました。新しい青春映画の芽生えとして私共もお手伝いし、感動させたいと思っています」、家城久子は「製作と配給を東映さんにお願いしたのは家城のリリカルなタッチと、東映のダイナミックなタッチがミックスすれば青春映画のいい作品が作れると考えたからです。原作を読んで映画化を勧めてくれた若い人たちの期待に応えられるような作品にしたい」、オフィスアカデミー・西崎義展代表は「登石さんからぜひ実現したい企画があるんだがと相談を受け、本を読んでこの青春ドラマに共鳴した。

本作が公開された1979年は、アメリカのスポ根映画の大攻勢が予想されたことから、映画関係者は「東映が1975年にアメリカのパニック映画に対抗して『新幹線大爆破』を作ったように、今度は朝令暮改の東映が『わが青春のイレブン』でアメリカのスポ根映画を迎え撃とうとしている」と揶揄した。「果たして従来のスポ根路線から脱皮しえているかどうか?鳴物入りのTCC(東映シネマサーキット)方式による目玉作品として宣伝しているものの、TCC自体どこまで本気なのか、疑わしい」などと評し、東映映画と捉えていた。

当時はフリーの降旗康男が映画化の相談を最初に受けたのは1977年夏。家城の遺稿は未完成稿であったため、降旗は「現代の青春群像として映画化するなら、登場人物たちが新鮮さを失わないうちに、出来るだけ早く映画化した方がいいですよ」などとアドバイスし、一番いいのは家城の未亡人・家城久子が監督するのが最善とは思ったが、当時の日本映画を取り巻く環境でそれは不可能で、製作は進展しなかった。1978年秋になって、家城が一時籍を置いた東映で映画化が決まった。当時の出身者も含めて東映時代に家城に助監督として就いたのは、降旗と佐藤純彌ぐらいしか残っておらず、降旗がちょうど『冬の華』の撮影を終えたところで、「いま身体が空いてるから降旗がやるのが早道だろう」と監督オファーされた。降旗が家城に助監で就いたのは『裸の太陽』『素晴らしき娘たち』『逃亡』の3本。

ジャニーズ事務所の映画製作が活発になるのは1980年代に入ってからだが、主題歌をフォーリーブス解散後の青山孝(青山孝史)が歌うほか、川﨑麻世と田原俊彦がライブパブ風の店のライブシーンで登場する。川崎は「サッカーをテーマにしたスポーツものっていうことで、激しく喜んでいたのに…結果テレビドラマ(『ナッキーはつむじ風』TBS)とのスケジュール調整がつかず、ほんのちょっと歌だけのゲスト出演になってしまった、残念!」と述べている。ジャニーズの取り込みは、当時東映が盛んに外部提携を進めていたことからと見られる。

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