汚れた英雄

汚れた英雄 (1982)

0.1(コンマイチ)秒のエクスタシー

UGOサーキットで国際A級500cc決勝(全日本選手権ロードレース第8戦)が開催。バイクレーサー北野晶夫と大木圭史の宿命の対決は、ゴール直前で北野が大木に追い抜かれて終了、勝負は最終戦にもつれ込んだ。北野はその美貌とセックステクニックを駆使し、複数のパトロンからチーム維持のための資金を得ていた。10億ドルの遺産を引き継ぎ国際的なコングロマリットのオーナーになったクリスティーン・アダムスが来日すると、北野はさっそく彼女に接近し、見事に資金を調達するのだった。そして北野はついに最終戦を迎えるのだが…。

公開日
1982-12-18
TMDB
6.3 / 10 (3)
上映時間(分)
1時間52分
ジャンル
アクション
監督
角川春樹

キャスト

豆知識

『汚れた英雄』(よごれたえいゆう)は、大藪春彦のハードボイルド小説。

製作

1979年に角川春樹が西崎義展と徳間書店の徳間康快と大藪春彦の小説『蘇える金狼』『汚れた英雄』『傭兵たちの挽歌』の映画化について提携し、3年間にわたって製作していくと発表した。「汚れた英雄」については、文庫化権は徳間文庫が、映画化権は角川春樹事務所が保持していたが、これをバーターすることで、角川文庫から原作を出すことで徳間書店に映画化の権利が渡った。徳間康快の希望でプロデューサーは当時アニメ『宇宙戦艦ヤマト』を当てていた西崎義展が起用された。西崎は製作にあたっての出資も行い、徳間書店と西崎義展のオフィス・アカデミーとの共同製作となる予定だった。出資比率は、徳間書店が70%、オフィス・アカデミーが30%だった。主人公は一般公募、監督は舛田利雄と中島貞夫が候補に上がっており国外ロケも予定された。

徳間書店の映画化権は1981年10月に切れたため角川で製作が決まった。1982年の東映正月興行『セーラー服と機関銃』が東映創立以来のメガヒットを記録したことから、すぐに岡田茂東映社長が1年先の1983年の正月映画の製作を併映の『伊賀忍法帖』の2本とも角川に頼んだ。このため製作発表は異例の早さで1982年2月4日に、銀座三笠会館で岡田と角川が出席して共同製作発表会見が行われた。この時点では角川のプロデュースと脚本の丸山昇一しか決まっていなかった。根岸吉太郎や村川透、鈴木清順など、7、8人に監督が打診されたが全員に断られた。角川は後に「『グラン・プリ』とか『栄光のル・マン』とか四輪の話はありましたが、二輪レースをどう撮ったらいいか、誰も分からなかったからでしょう」と語っている。監督が未定のまま特報を作ることとなり、角川は撮影を写真家の長濱治に依頼し、鈴鹿サーキットや菅生サーキットを巡って撮影を続け、それから本編の脚本作りに取り掛かった。

物語は原作小説とはまったく異なるものである。2本立てのため1時間50分が限度で、脚本の丸山は当時のインタビューで、2時間弱の映画の中では原作の一部分しか描けず、また終戦後から始まる原作では当時の時代背景から描かねばならないことなどから、原作のストーリーから離れて現代を舞台にすることに当初から決めたという。丸山は原作の中の「物語」ではなく、「キャラクターの生きざま」を描こうとしたといい、「北野晶夫ライブ」という表現を用いている。

角川は、映画の主役は北野晶夫でなく、バイクレースそのものであると考え、レースを如何にセクシーに撮るかに拘った。そのため「他に監督がいないなら私がやるしかない。二輪レースを命がけで撮ろう」と、監督を自ら買って出るが、周囲は猛反対し、唯一賛成したのは俳優の松田優作だけだったという。角川の監督が正式決定したのは1982年6月。撮影は(1982年)8月から10月上旬までの約70日間。三重県鈴鹿サーキット、宮城県菅生サーキットロケを含み、この間、角川は通常業務をこなしながら監督業を務めると発表された。1982年7月21日に東京會舘で正式な製作発表会見で(1982年)8月1日クランクイン、10月クランクアップ、11月上旬完成と発表された。

この年春に公開された『化石の荒野』の大コケで、「角川映画もここまで」などと一部で囁かれたこともあり、プロデューサーとして監督として並々ならぬ決意でのぞんだ。

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