忍法忠臣蔵

忍法忠臣蔵 (1965)

山田風太郎原作の「くノ一」シリーズの第3弾。物語の骨子を「忠臣蔵」におき、四十七士とこれを阻もうとする上杉方の能登忍者、色仕掛けで赤穂浪士の復讐心を殺ごうと千坂兵部が放った「くノ一」忍者たちが三つ巴となって繰り広げる対決をエロティシズムと笑いで描く。

公開日
1965-02-25
TMDB
1.0 / 10 (2)
上映時間(分)
1時間23分
ジャンル
アクション
監督
長谷川安人

キャスト

豆知識

『忍法忠臣蔵』(にんぽうちゅうしんぐら)は、1965年の日本映画。

製作

企画は東映京都撮影所(以下、東映京都)の実権を握る当時の同撮影所所長・岡田茂。タイトルから「くノ一」を外したのは『くノ一忍法』製作の際、シナリオで19ヵ所、フィルムで10ヵ所、映倫からカットを要求されて揉めたため、映倫への誠意としてタイトルから「くノ一」の文字を外した。この年、NHKの大河ドラマ2作目『赤穂浪士』が高視聴率を記録したことで、大映が1958年の『忠臣蔵』を社宝版と銘打ち、リバイバル公開するなど忠臣蔵がブームになっていたことから、山田風太郎原作の『忍法忠臣蔵』を取り上げた。

中島貞夫が岡田を冷やかすつもりで出した企画を映画化した『くノ一忍法』が、1964年10月に公開され、新人・中島貞夫を監督に起用し、高額スターも使わず、製作費もテレビ映画に毛の生えた程度の低予算で製作しながら、東京オリンピックに喰われた映画興行界を独走し、配収1億5000万円を越える水揚げを記録したことから岡田が高笑いし「くノ一」をシリーズ化した。当時は女性の裸が登場する時代劇は珍しかった。

東映京都製作の時代劇の興行不振が続くため、岡田は1965年に時代劇をテレビに移す決断を下し、「映画ではテレビでは出来ない"不良性感度"映画を製作する」と宣言した。時代劇に代わる二本柱として岡田が考えたのが暴力(ヤクザ映画)とエロ(東映ポルノ)であった。1965年に「東映好色新路線」としてエロ映画を大手映画会社で初めて路線化する方針を打ち出した。

しかし始めてすぐに爆発的に人気を呼んだ任侠映画とは違い、「東映好色新路線」は、東映の看板俳優たちに嫌がられ、出演拒否が続出し製作が難航、なかなか路線化に至らず。エロ路線が軌道に乗ったのは製作まで二年を要した『大奥㊙物語』が1967年7月に公開され大ヒットまでかかった。それまでエロ路線として成功していたといえるのは、この「くノ一」シリーズだけであった。岡田は1965年の正月に「ボクが時代劇の製作を担当して一年になる。この間、いろんなジャンルに手を出してみたが、自信を持って成功したといえるのは"くノ一"以外ない。しかし企画者として一つの新しいジャンルを見つけたことは大いに満足している」と話した。

『くノ一忍法』『くノ一化粧』に続き、岡田は中島に監督をさせようとしたが、中島が女性の裸を見ると胃が痛くなる奇病に見舞われ、監督降板を申し入れ、監督は長谷川安人に交代した。長谷川は岡田に「パートカラーを使わしてくれ」と頼んだが、「あかん、銭かかる」と拒否され、また加藤泰の脚本が遅く、揉めて「もっと面白くなりませんか。具体的にヒントになるような」と言ったら、加藤から「もともと面白いという根っこのないものだから、無いものねだりだよ」と言い返された。長谷川は加藤に恨みを抱き、1973年に加藤が撮った『宮本武蔵』について、加藤が感想を聞いてきたから「大柄で大根の女優、あれなんですか?」と悪態をついた。長谷川は『忍法忠臣蔵』について、「そうでなくても気に入らん題材で、思い出すのもイやな映画」と話している。

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