主水之介三番勝負

主水之介三番勝負 (1965)

私怨の果たし合いで破門され、剣の旅を続けていた夢殿主水之介は3年ぶりに江戸に帰る。その時、将軍家指南役・柳生備前守によって紀州家指南役が決まろうとしていた。恩師・片倉一閑斉と大塚玄蕃の対戦を前に、玄蕃は殺し屋浪人を使い一閑斉を殺害し…。

公開日
1965-03-07
TMDB
7.0 / 10 (1)
上映時間(分)
1時間28分
ジャンル
アクション, ドラマ
監督
山内鉄也

キャスト

豆知識

『主水之介三番勝負』(もんどのすけさんばんしょうぶ)は、1965年の日本映画。主演・大川橋蔵、監督・山内鉄也。製作・東映京都撮影所、配給・東映。

製作

企画は当時の東映京都撮影所(以下、東映京都)の実権を握る同撮影所所長・岡田茂。東映京都撮影所長代理・渡邊達人は、1964年後半から東映京都の映画は、全部岡田の企画に切り換えられたと述べている。当時の東映京都の企画会議は岡田の独演会で、他の出席者は「結構でございます」で会議が終了したといわれる。

岡田は1964年1月の東映京都撮影所長復帰早々、映画での時代劇製作打ち切りを宣言して、東映京都は任侠映画を中心とした製作、時代劇はテレビへ移行させていった。しかし東映京都は1963年に全て時代劇を54本も製作しており、任侠映画への転換や、時代劇をテレビに売ったりを一朝一夕には出来ないため、まだまだ時代劇のヒット作を作らなければならなかった。岡田は東映京都の立て直しとして血みどろの合理化と並行して任侠路線への転換を進めるが、岡田発案による任侠路線の二大目玉企画が、鶴田浩二主演の「博徒シリーズ」と中村錦之介主演の「日本侠客伝シリーズ」で、岡田は鶴田浩二と中村錦之介を柱に東映京都の改革を構想していたが、錦之介が『日本侠客伝』の主演を拒否し、代わりに主演に抜擢された高倉健の人気が爆発した。錦之介と高倉は仲が良かったから、錦之介は二作目以降はあっさり身を退いた。

岡田が京都撮影所長就任前からやっていた「集団抗争時代劇」は継続させ、橋蔵の人気回復を試み、新たに岡田企画で『地下室のメロディー』の翻訳時代劇『御金蔵破り』や、流行の残酷描写を取り入れた『幕末残酷物語』などを作らせたが、これらは作品の評価は高くても興行は振るわず。岡田は1965年の正月に「ボクが時代劇の製作を担当して一年になる。この間、いろんなジャンルに手を出してみたが、自信を持って成功したといえるのは"くノ一"以外ない。しかし企画者として一つの新しいジャンルを見つけたことは大いに満足している」と話したが、それ以外はネタもなく、岡田が思いついたのが、かつての東映時代劇の人気シリーズを役者を交代させてのリメイクであった。片岡千恵蔵の代表作シリーズ『いれずみ判官』を鶴田浩二に、市川右太衛門の代表作シリーズ「旗本退屈男」を大川橋蔵で演じさせ、これをシリーズ化すれば宣伝も浸透しているし、製作コストが安く済むと計算した。当初はシリーズ化を予定していた。

往年の橋蔵主演映画はコンスタントに興収2億5000万円から3億円(以下、金額は興収)を叩き出していたが、1964年一月の『人斬り笠』『風の武士』辺りから興行成績が低下した。以降、興行的失敗が続き、『紫右京之介 逆一文字斬り』も悪く、橋蔵の極めづき『新吾番外勝負』も1億5000万円に達せず。『御金蔵破り』は朝丘雪路との共演という話題性もあって1億5000万円をキープしたが『大喧嘩』『幕末残酷物語』も悪く、『黒の盗賊』はまあまあだったが、1965年2月の『バラケツ勝負』が1億そこそこと落ち込んだ。橋蔵は東映と契約以降で初めて1965年の正月映画から外されたが、岡田は1964年末に「いろいろいわれるが、時代劇そのものが転換期に来ているので、橋蔵君が低迷しているのではない。彼は何といっても軟調の第一人者で、長谷川一夫さんの後を直接に継ぐ者だ。といっても、彼はもう中年なのだから、美しいだけではなく、リアルな芝居が要求されている時代でもあるし、筋金の通った演技を確立することが必要になろう。

両御大にリメイクの許可を取りに行ったら、全く正反対の結果になった。まず片岡千恵蔵は年齢的のもひけ時とみてか「鶴田クンならいいでしょう」と潔くバトンタッチを了承。千恵蔵が鶴田に長裃や印籠、参考資料など全部渡し「二代目をやってくれ」と頼む儀式が行われ、円満に『いれずみ判官』が製作された。しかし市川右太衛門は「退屈男は舞台、テレビでも大いにやっていきたいし映画もまだ諦めたわけではない」と難色を見せた。右太衛門が執着するのは、次男の北大路欣也に退屈男を譲りたいという希望を持っていたからと見られた。橋蔵は『恋や恋なすな恋』や『天草四郎時貞』など、興行不振が続き、ライバル・中村錦之助にかなり水をあけられている状況。橋蔵の「旗本退屈男」なら役柄にもピタリと思われ、興行的にも新鮮力があり、橋蔵自身も大乗り気だった。しかし1964年末から1965年初めにかけて、何度も右太衛門を説得したが全く取り合わず。

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