将軍家光の乱心 激突

将軍家光の乱心 激突 (1989)

時の将軍である徳川家光は次男の徳松を溺愛し、長男の竹千代を亡き者にしようとしていた。竹千代は幕府の刺客に襲われるが、腕に覚えのある浪人たちに助けられ事なきを得た。元服式のため江戸城への出仕を命じられた竹千代は、石河刑部ら浪人たちに守られながら江戸城へ向かう。道中、幕府の刺客たちが次々に現れ、浪人たちは命がけで竹千代を守り続けるのだった。

公開日
1989-01-14
TMDB
6.9 / 10 (25)
上映時間(分)
1時間54分
ジャンル
履歴, アクション
監督
降旗康男

キャスト

豆知識

『将軍家光の乱心 激突』 は、1989年の日本映画。主演:緒形拳、監督:降旗康男、アクション監督:千葉真一。製作 : 東映、カラー・ワイド・ビスタ・サイズ、111分。第39回ベルリン国際映画祭招待作品。

製作

1986年暮れから1987年の正月にかけて『白虎隊』(日本テレビ)、『太閤記』(TBS)、『怒涛の将軍徳川家光』(テレビ東京)と、民放各局で大型時代劇ドラマが放映され、1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』も好評を博していたことから、1987年の春に岡田茂東映社長が、高岩淡東映専務兼東映京都撮影所長に「時代劇を久方ぶりに一本やれ」と指示した。岡田は時代劇が一番好きで、「まあ時代劇は東映の伝統芸能だから一本はやろう」と、やっと食指を動かした。

当時の民放の大型時代劇は、ほとんど東映京都撮影所が作っていたが、岡田は「時代劇の場合、やっぱりスーパースターがいる。どう生み出してゆくか。京都撮影所でやると必ず往年の感覚に逆戻りする。時代劇はこういうものです。ジス・イズ・ザ・時代劇、染みついちゃってるから、本もこう、監督もこう、役者組んだら古い顔ぶれが並ぶ。チャンバラの新しいスターを作るなら、役者など追っかけないで剣道のいま達人といわれる若い人の中から、顔もよくてセリフを喋れるような、フレッシュな素材をスカウトしてこい。テレビの時代劇が視聴率を獲ったといっても映画でやるなら、そんなの捨てなきゃダメ。新しいモノを生み出さない限り、時代劇は息を吹き返さない」などと話し、岡田が当時の企画会議で言っていたのは『ランボー』みたいなアクション映画を作れで、「若手を起用してうんと派手なチャンバラ映画にしろ」と指示が出た。

岡田と日下部五朗・佐藤雅夫プロデューサーの三人でプロットが練られ、徳川時代の将軍の跡継ぎの問題で、徳川御三家の嫡子を将軍の意向で江戸に迎える。それを敵対する家の忍者軍団が阻止する。将軍側の忍者軍団がそれを擁護して江戸に上がる東海道五十三次の中での攻防戦となり、ここで日本人だけではなく、韓国の拳法の達人や古武道など中国や香港から本物の武芸者を呼び、日本の武芸者も真田広之などの若手で固め、薬師丸ひろ子など若手女優をいっぱい出して、年寄格で松方弘樹や千葉真一を起用して大掛かりに、アクションづくめの異色大作にしようと決まった。イメージは『十三人の刺客』+『柳生一族の陰謀』であった。日下部は「ほとんど私がアイデアを出した」と話している。このプロットが決まったのは1987年春で、1987年秋から1988年の春にかけて半年がかりで製作する予定であった。

このプロットで中島貞夫に脚本が発注され、「アクション物に徹してくれ」と指示があった。中島は一人じゃ到底無理と、松田寛夫に共作を頼み、松田が他の仕事を掛かっていたため、先に中島が先行し、松田の手が空いたら共作に入るという条件で引き受けた。中島と松田はアメリカのアクション映画や西部劇を観まくり日本独自のものを取り入れた。シナハンを繰り返したがコース設定に難航するなど脚本に9ヵ月かかった。

1987年9月の時点での仮タイトルは 『忍びの者たち』で、公開は1988年6月を予定し、『敦煌』の公開に当てようという計画だった。高岩は中国本土の本物の武芸者を出そうと中国に行き、合作公司に頼み、その足で『敦煌』の撮影を見学し、本物の煉瓦や材木を使って本建築で城を作っているのにビックリ。高岩は徳間康快に「あなたは素人だからこんなことが出来るけど、ウチはプロだから怖くてこんな映画は作れない」と言った。しかし徳間の情熱に感心し、帰って岡田社長に「『敦煌』みたいに45億円もいらんけど15億円は使わせて下さい。ウチだけが最近大きな映画を作ってないですから」と訴えた。

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