福沢諭吉

福沢諭吉 (1991)

世界を日本に開いた男。

1835年、豊前中津藩の下級武士の家に生まれた諭吉。21歳で蘭学の道を志した彼は長崎に留学、その後大阪での生活を経て25歳で江戸に渡り、蘭学塾の塾長となる。そんなある日、諭吉は後輩の岡本周吉と共に出かけた横浜で英語に出会い、西洋文化に開眼していく。

公開日
1991-08-24
TMDB
8.0 / 10 (2)
上映時間(分)
2時間3分
ジャンル
ドラマ
監督
澤井信一郎

キャスト

豆知識

『福沢諭吉』(ふくざわゆきち)は、1991年の日本映画。福沢諭吉の伝記映画。東映京都撮影所/東映東京撮影所初の共同制作、東映配給。文部省選定(青年・成人向)、優秀映画鑑賞会推薦他多数団体推薦。

製作

福沢諭吉の崇拝者である雑誌『経済界』の主幹・佐藤正忠が、古くから付き合いのある岡田茂東映社長(当時)に企画を提出し、岡田はまだ承諾していないのに、佐藤が「東映が福澤諭吉を映画にするから賛助金を」と企業からどんどん金を集めて回ったため作らざるを得なくなった。結局、全製作費を佐藤自身で用意するという約束で東映で製作を決めた。岡田にしてみれば慶応のOB会は強力であるし、幸福の科学(映画)と同様に儲かりさえすればいいという計算が働いたといわれる。佐藤は前売り券を200万枚固めると豪語していた。こうした企業タイアップ映画は、原価10億円のスケールとなるため、前売りが100万枚は売れないとやる意味がないと岡田は話していた。しかし事情があって岡田は途中からプロデューサーを慶応出身の息子・岡田裕介に代えた。

製作発表記者会見が福沢諭吉の菩提寺、東京麻布の善福寺で行われ、岡田東映社長、佐藤正忠『経済界』主幹、柴田恭兵、澤井信一郎らが出席。岡田社長は「何か異色の企画をと考えていた時に佐藤主幹から福沢諭吉の話があり、面白いと採りあげた。しかし興行的に大当たりさせるには佐藤氏が製作を引き受けてくれなければとお願いした。重量感のある娯楽大作に完成して全社挙げて大動員を図りたい」等と話した。また本作で初めて東映の東西両撮影所所長・岡田裕介東京撮影所(以下、東映東京)と佐藤雅夫京都撮影所長が初ジョイントプロデュースにあたる、撮影は1991年2月27日、京都でクランクイン、4月いっぱいでクランクアップと発表された。

岡田社長から笠原和夫に電話があり「おい、一万円やるぞ!」「はぁ?」「一万円や、お前、書け」と笠原が脚本を担当。「どうしたらいいですか?」と聞いたら「どうでもいいから、とにかくパーっと景気にいい話にしてくれ」と指示された。笠原は福沢諭吉が好きではなかったがやむなく脚本に取り掛かり、いつものように福沢の資料を山ほど集めたが、福沢諭吉自体は愛人も一人もいないような映画的な題材には面白みのない人で、福沢の資料集めの段階で自殺した諭吉の父・福沢百助の話を柱にしようとした。しかし慶応出身の岡田裕介がオミットしたため、福沢とほぼ同世代の勝海舟や榎本武揚、大鳥圭介、鈴藤勇次郎らを出して明治維新一歩手前の青春群像を書き脚本を提出した。

本作は笠原と監督の澤井信一郎との行き違いが有名である。笠原の第一稿は東映調のスペクタクルなシナリオだったが、澤井が気に入らず揉めた。笠原は打ち合わせで初めて澤井に会うなり開口一番「笠原さん、私はドラマは要りません」と言われ、「ドラマがいらないならシナリオライターはいらないんじゃないか」と降りようとした。しかし岡田裕介に引き止められ、数日後再度話し合いが持たれ、澤井が「福沢が英語教師をやっていた話なんかをマジに描きたい」と言うから「そんなの画になるかね?」「それなら君が自分で書いたらいいじゃない」と言ったら「力を貸して下さい」と言うので、「福沢と子供の頃からの友人で、福沢と正反対のような人生を歩んでいる奥平壱岐を絡ませる話にしたらどうだ」と提案したら「笠原さん、私はそれを捜していたんです!」と言うから「バカ言ってるんじゃないよ、これはドラマじゃないか」と言ってやったなどと話している。澤井は著書『映画の呼吸: 澤井信一郎の監督作法』にこの笠原の自身への批判を長く頁を割いて解説している。

しかしその後も笠原が柱の一人にしたかった増田宗太郎の話を外されたり、中盤でノイローゼになる中条貢の扱いなどでも揉めて結局第四稿、脚本に半年を要した。桂は笠原との共同作業に「感化を受けたし勉強になった、大林先生、笠原先生が、僕の恩人。それまではみんなにバカにされていた」などと話している。奥平外記は奥平壱岐であるが、ドラマ上で自殺させたため関係者からクレームを考慮し名前を変えている。映画では福沢と同学年という設定だが実際は奥平が10歳年上である。

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