アンドレイ・ルブリョフ (1966)
Андрей Рублёв
タルコフスキーとコンチャロフスキーという、旧ソ連の枠を脱して活躍することになる二大俊英が協力して脚本を執筆し、中世ロシア史上最高のイコン画家ルブリョフを主人公に、当時の社会と民衆の関わりを巨視的に捉えた歴史大作で、全体で二部構成。冒頭の、巨大な気球での飛行を試みる男たちの描写が象徴する閉鎖的な時代に、信仰と芸術の力によって風穴を開けたのがルブリョフと言える。彼は同窓の僧侶キリールに陥れられかけ、逆に大公の覚えめでたく宮廷画家となるが、連日、寺院の白い壁に向かい一筆も動かさない。神の愛を描きたいと願う彼の眼に時代は暗く映りすぎた。そして、公弟にそそのかされたタタール人が城を襲う(ここからが第二部)。ルブリョフは白痴の少女を救おうとして敵兵を討ち、後悔から筆を絶ち、修道院に戻るが、誰とも口をきかない。今や落魄の身のキリールとの再会……。ロシアはなお暗黒の中にあったが、大公は巨大な鐘の鋳造で威信回復を図る。今はなき名人の息子ボリースカの指導によって作業は開始され、ルブリョフはそれを興味深く見守る。秘訣を父に教わったという少年だが、実は鐘を作りたいばかりについた出まかせで、ようやく大鐘完成の暁に彼は真実を泣きながらルブリョフに明かす。彼は少年を賞賛し、自らも励まして言った。“君と一緒にやって行こう”……。15年にわたる無言の行の末、最初に出た言葉がそれであった。彼は再び絵筆をとり、その後、それまでの白黒とうって変わった鮮やかなカラーで写し出される偉大な作品群を残したのである。観ることが主人公の忍従に重なるような重厚な作品だが、それ故にラストの解放感は筆舌に尽くし難い。丸裸の自己と神--という一対一の構図を発見するまでの確執を描くのは、後のタルコフスキー作品にも通じるテーマだ。
- 公開日
- 1966-12-16
- TMDB
- 7.9 / 10 (993)
- 上映時間(分)
- 3時間3分
- ジャンル
- ドラマ, 履歴
- 監督
- アンドレイ・タルコフスキー
キャスト
- アナトリー・ソロニーツィン — Andrei Rublev
- Иван Лапиков — Kirill
- ニコライ・グリンコ — Daniil Chornyy
- Николай Сергеев — Theophanus the Greek
- Ирма Рауш — God's Fool
- Николай Бурляев — Boriska
- Юрий Назаров — Grand Duke / Minor Duke
- Юрий Никулин — Patrikey
- Ролан Быков — Buffoon
- Николай Граббе — Stepan, Centurion of the Grand Duke
- Михаил Кононов — Foma
- Степан Крылов — Senior Foundry Worker
豆知識
- 製作費:RUB 90万
- 撮影地:モスクワ、ロシア
『アンドレイ・ルブリョフ』 は、1966年のソビエト連邦の映画である。監督は、アンドレイ・タルコフスキー、脚本は、アンドレイ・コンチャロフスキーとアンドレイ・タルコフスキーがつとめた。出演は、アナトリー・ソロニーツィン、イワン・ラピコフ、ニコライ・グリニコ、ニコライ・セルゲーエフ、ニコライ・ブルリャーエフ、イルマ・ラウシュなど。15世紀初頭のモスクワ大公国を舞台に、イコン画家アンドレイ・ルブリョフを描いた歴史映画である。
製作
1961年、『僕の村は戦場だった』で長編映画の初監督をつとめていたアンドレイ・タルコフスキーは、その製作中にイコン画家アンドレイ・ルブリョフにかんする映画の企画書を映画スタジオのモスフィルムに持ち込んだ。1962年2月に脚本執筆の契約を結び、タルコフスキーと脚本の共同執筆者アンドレイ・コンチャロフスキーは、映画の舞台となる中世史や当時の芸術文化にかんする書籍や記録を調査しながら、同年12月に第一稿を完成させた。その後、2回の改稿を経て、1963年12月に脚本の最終稿がモスフィルムに承認されたのち、1964年4月にはソビエト連邦における映画全般の管理を担っていた中央行政機関ゴスキノでも脚本が承認されて、映画製作が始まった。また、時期を同じくして映画雑誌『映画芸術』4月号と5月号に脚本の最終稿が連載されて、歴史家、映画研究家や一般読者らによって社会政治的側面、歴史的側面から広く議論がなされた。
そもそも、ルブリョフの生涯の映画化は、映画俳優ワシーリー・リヴァーノフの構想から始まったものだった。リヴァーノフは、タルコフキーとコンチャロフスキーと3人でモスクワ郊外の森を散策中にルブリョフの脚本をともに書くことを提案したが、タルコフスキーとコンチャロフスキーは、リヴァーノフがほかの映画に出演中に2人で脚本を執筆し始めた。ルブリョフを題材に選んだ理由は、ロシア文化史上、第一級の人物のひとりであったからである。しかし、タルコフスキーは、ルブリョフの伝記映画や歴史映画にするつもりはなく、それよりむしろルブリョフの生きた時代と、芸術家の人格形成との関連性を表現することに興味を持ち、ルブリョフが芸術家として成熟していく過程を描こうとした。
そして、主役のルブリョフ役には、スヴェルドロフスクの無名の舞台俳優だったアナトリー・ソロニーツィンを選んだ。映画雑誌『映画芸術』に掲載された脚本を読んだソロニーツィンは、ルブリョフの役にほれ込み、自費でモスクワへ行ってタルコフスキーに会い、「この役を自分以上に演じられるものは誰一人としていない」と断言した。それは、タルコフスキーも同感で「自分のいだくアンドレイ・ルブリョーフにもっとも近いものを見出した」が、モスフィルムが起用に反対した。どうしても起用したいタルコフスキーは、古美術の専門家や修復家からも意見を聞き、ソロニーツィンが適役であるとおおくの専門家から助言を受けたことで自信を深めて起用を決めた。
撮影は、脚本が承認されてから1年が経った1965年4月14日に、スーズダリで始まった。スーズダリでは、ポクロフスキー聖堂を使って「鐘 1423年」の章の撮影を行い、それ以降はネルリ川や、ウラジーミル、プスコフ、イズボルスク、ペチョールィの史跡を使ったロケーション撮影が行われた。また、当初の撮影予算は160万ルーブルだったが、数次にわたって予算が削減されて90万ルーブルにまで減額された。予算の削減に伴って、クリコヴォの戦いを描く合戦シーン、大公の弟が白鳥狩りをするシーンや、タタール兵と佯狂の女との間にできた子どもの出産を農民が手伝うシーンといった脚本にあるいくつものシーンを削除した。製作は1965年11月から1966年4月まで豪雪によって撮影を中断したが、全体としては順調に進み、撮影開始からおよそ1年のあいだに作品が完成した。
プロダクションデザイン:エフゲーニー・チェルニアエフ、イッポリト・ノボジェレシキン、セルゲイ・ボロンコフ
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