狂った一頁

狂った一頁 (1926)

元船員の老いた男は、自分の虐待のせいで精神に異常をきたした妻を見守るために、妻が入院している精神病院に小間使いとして働いている。ある日、男の娘が結婚の報告を母にするため病院を訪れ、父親が小間使いをしていることを知る。娘は自分の母が狂人であることを恋人に悟られないよう懸念している。娘の結婚を知った男は…

公開日
1926-09-24
TMDB
7.3 / 10 (186)
上映時間(分)
59分
ジャンル
ホラー, ドラマ
監督
衣笠貞之助

キャスト

豆知識

『狂つた一頁』 は、1926年(大正15年)9月に公開された日本のサイレント映画である。監督は衣笠貞之助、主演は井上正夫。

製作

1925年(大正14年)10月、マキノ・プロダクションに所属していた衣笠貞之助は、直木三十五の聯合映画芸術家協会製作下で、野心的作品『日輪』(卑弥呼を題材にした横光利一の小説『日輪』原作)を監督し、これを機に横光と知己を得た。しかし、『日輪』は右翼団体から抗議を受け、牧野省三の判断で上映中止となり、衣笠がマキノのもとを去る原因となった。当時の日本映画界では映画監督が自主独立して映画を作ることは珍しかったが、衣笠は満30歳を迎えた翌1926年 (大正15年)に「誰からも掣肘を受けずに、自由に思いのままの映画を作ってみたい」と考え、また俳優時代から溜まっていた金が映画1本分の製作資金になっていたこともあり、マキノのもとを離れて独立した。

衣笠はまず、映画製作に必要なカメラを手に入れるため、知人のドイツ人青年アルデンボーグに頼んで、4000円もする映画用カメラのパルボK型を上海まで買いに行かせた。バルボK型は4つのレンズが付き、400フィートのフィルムを装填できるカメラで、本作の撮影でも用いられた。さらに京都市の自宅に現像所を設け、撮影所として自宅近くの茶畑の空地を借り受けた。衣笠が最初に構想した作品はサーカスを舞台とした老人の物語で、巡業サーカスの一座を1か月間借り切り、茶畑の空地にサーカス団の天幕を張って、それを撮影所代わりにして撮影するという計画を立てた。

1926年(大正15年)3月、衣笠はこの新しい映画製作の相談をするため、妻の看病のため葉山に滞在していた横光のもとを訪れた。衣笠は以前から新感覚派の作家である横光の実験的な小説に関心を示し、芸術的共感を持っていた。横光は衣笠の計画に積極的に応じ、『文藝時代』同人の川端康成、片岡鉄兵、岸田國士や、池谷信三郎らに声をかけることにした。川端は当時、『文藝時代』の合評会に出席するため、滞在地の伊豆から上京していたが、4月2日に横光から「映画のことにて是非話したし直ぐ来い」という電報が届き、翌3日に葉山の横光のもとを訪ねると、居合わせた衣笠から「営利を度外視してよき芸術映画を製作せんとする企て」を聞かされた。川端も計画に乗り気になり、片岡たちを仲間に入れるため、3人で東京へ出て片岡の下宿を訪ねたが留守で、仕方なくホテルに泊まることになった。

4月10日、3人は東京ステーションホテルで片岡や岸田と相談をするはこびとなった。こうして衣笠と新感覚派作家の横光、川端、片岡、岸田をメンバーとする映画製作プロダクションの「新感覚派映画聯盟」が成立し、この映画の計画のために共同で案を練ることになった。新感覚派映画聯盟という名称は、東京ステーションホテルでの会合を嗅ぎつけた『報知新聞』の芸能記者の中代富士夫が、4月11日の新聞紙上にそれを報じた時に勝手に命名したものである。川端は4月末時点で、自分たちではまだ名称を決めたわけではなく、むしろ他にいい名称が思いつかないため、ただ便宜的に新感覚派映画聯盟という名称を使っているだけであると明かしており、「製作の仕事が初まるまでに外のいい名称が見つかれば、勿論新感覚派云々なぞと云ふ窮屈な名称は用ひないつもりである」と述べている。その後、新感覚派映画聯盟という名称が独り歩きしたことで、いつの間にか正式なプロダクション名として採用されることになった。

はじめに衣笠が構想していたサーカスと老人の物語は、横光や川端たちと顔合わせをするうちに見送られ、代わりに手が空いていた岸田國士が『ゼンマイの戯れ』というシナリオを2日程で執筆した。このシナリオは特許マニアの定年前のサラリーマンを主人公にした、フランス的な風刺のきいた小喜劇だったが、映画向きではないという理由で没になった。そこで衣笠と川端たちは新橋の烏森にある旅館に泊まり込んで案を練ったが、なかなかいい案は出てこなかった。

Wikipediaで続きを読む · テキストはWikipedia、CC BY-SA 4.0。データはWikidata。

おすすめ