高原に列車が走った

高原に列車が走った (1984)

先生にあえてよかった。

信越本線の軽井沢から小諸間。乗り遅れたら数時間は時間を潰さねばならず、それが生徒たちの非行の原因になっていた。そんな生徒たちが通う軽井沢の高校に赴任してきた宗形順子は、生徒やPTA、国鉄職員を巻き込みながら、列車増発運動に打ち込んでいく。

公開日
1984-09-29
上映時間(分)
1時間43分
ジャンル
ドラマ
監督
佐伯孚治

キャスト

豆知識

『高原に列車が走った』(こうげんにれっしゃがはしった)は1984年の日本映画。中沢憲一原作による実話の映画化。カラー、ビスタサイズ、104分。映倫番号:111488。昭和59年度文化庁芸術祭参加作品。

製作

『キャプテンウルトラ』や『ザ・スーパーガール』などのプロデューサーとして知られる植田泰治は、東映定年退職後の2017年現在も、映演アニメユニオン執行委員長や治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(国賠同盟)などで活動する共産党員であるが、植田は当時、組合活動家を配転させるために作られた東映東京制作所に所属していた。東映東京制作所は1982年に『Gメン'75』の制作が終わり『ザ・サスペンス』が始まると仕事がなくなり、このセクションを潰したいと考えた岡田茂東映社長(当時)は強権発動を考えていたが、植田泰治が職場防衛のため、「賭けをさせてくれ、映画を作らせてくれ、賭けに負けたらしょうがない、東映が生き残るためには」と岡田に申し入れた。アタらなくても儲かる「空海システム」、国労、動労に前売りをはかせると訴え、「じゃ、作ってみろ」と製作が決まった。

植田は「バイクに乗ってタイマン勝負をするような先生を演じた美保純のキャラクター設定は『ザ・スーパーガール』の影響がある」と述べている。監督の佐伯孚治は植田の組合仲間。1964年に『どろ犬』で監督デビューした後、大川博東映社長(当時)の家にデモをかけ、先頭に立って干された人物。映画は20年ぶりで『どろ犬』は悪徳警官物であったため、正反対の内容の作品となった。

主演の美保純は、同じ年に本作を配給する東映セントラルフィルムの製作だった『四畳半色の濡衣』(向井寛監督)のポスターが、当初は胸をはだけ、ヒップばっちりという色っぽいものだったが、「こんなのイヤ」とゴネ、作り変えさせた。東映の損害は約100万円。俳優のゴリ押しでポスターの作り直しは前代未聞だったが、幸いまだ撮影前で、撮影中にゴネられるのも困るため、東映は美保の要求を飲んだ。美保は1982年に6本の日活ロマンポルノに出演し、当時の雑誌のグラビアにもふんだんにヌードを披露。1983年は一般映画にも進出し、大人気女優になっていた。ホンネの物言いは、当時からで「面白い企画が来ないよ。天狗になっているわけじゃないんだけど、新人の脇役みたいなのやらされたらたまんないしね。うらやましですよ。『女猫』とかね。どうして私にはああいう企画が来ないんだろうって」などと映画誌のインタビューで述べていた。

組合の書記長を演じる室田日出男は、東映東京撮影所で熱心に組合運動に参加し、東映ニューフェイスというエリートながら、珍しく東映をクビになった人で、正に適役。

教室シーンなど、一部を除きほぼ長野県でロケが行われている。長野で教師になった美保の回想シーンとして、美保が原宿RUIDOで働くシーンや、原宿竹下通りが2分程度映る。設定は1980年前後。西田敏行が千葉県でトラが逃げた話や、恐い先生の渾名がジョーズだったりする。音楽の先生である美保が生徒たちに「シンガーソングライターになれ」と説法し、「あんたたち、田舎もんが、世の中に出て一番目立てんのは、シンガーソングライターよ。千春は北海道でしょ…ああ、中島みゆきも北海道だね…矢沢永吉だって、京浜工業地帯のアンちゃんよー。シンガーソングライターしかないんだから、頑張んなさい」という無茶なセリフを言う。中盤の河原で他校との決闘シーンは、殴らない蹴らない、投げるか揉み合うだけ。

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