東京オリンピック

東京オリンピック (1965)

“オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである”。

1964年10月10日。聖火ランナーが満場の国立競技場に到着すると、第18回夏季オリンピックが開会する。短距離走、走高跳、砲丸投、棒高跳、走幅跳、体操、水泳、ウエイトリフティング、レスリング、柔道、射撃、自転車競技、“東洋の魔女”と呼ばれる全日本チームが活躍した女子バレーボールなど、白熱した名勝負の数々に、世界中から集まった観客が歓声を上げる。

公開日
1965-03-20
TMDB
7.7 / 10 (51)
上映時間(分)
2時間49分
ジャンル
ドキュメンタリー
監督
市川崑
シリーズ
100 Years of Olympic Films: 1912–2012

キャスト

豆知識

『東京オリンピック』 は、1964年の東京オリンピックの公式記録映画。1965年3月20日公開。上映時間169分。市川崑が総監督を務めた。1965年7月10日に大会組織員会が再編集した海外版(英語ナレーション、130分)が東宝洋画系で上映。2004年6月25日に市川崑が再編集したディレクターズ・カット版(147分)がオリジナル版DVDセットに収録。

製作

最初に話を受けたのは映画監督の黒澤明で、開催の4年前からローマオリンピックを下見する等、準備を進めていた。しかし、ニュース映画協会に加盟しているニュース専門会社7社と軋轢を起こすなど、組織員会での内部対立が起こり、黒澤が希望した予算5億2千万円に対して、約半分の2億4千万円しか提示されないことが決定的となって降板した。その後、今井正、今村昌平、渋谷実、新藤兼人ら複数の監督に話が流れ、最終的に市川に話が回ってくる。当時、大映と契約し、勝新太郎初の現代劇である『ど根性物語 銭の踊り』を製作していた市川は、大映社長だった永田雅一から電話連絡を受けて、本作のプロデューサーであった読売新聞社長の田口助太郎と面会、本作の総監督を打診されたが、五輪に関心がなく、スポーツ全般にも疎かった市川は返答を保留し、帰宅後、妻で脚本家だった和田夏十とも相談して、永田に判断を白紙委任する旨を返答した。

記録映画について予備知識がなく、素人同然の市川だったが、黒澤と対立したニュース専門会社からスタッフを集め、1963年に開催された東京国際スポーツ大会の記録フィルムを鑑賞するなどして、記録映画に関する勉強と人集め、そして組織作りを進めて行った。一方、田口から要望されたシナリオ作りには、和田夏十や脚本家の白坂依志夫、そして、当時映画作りに関心を持っていた詩人の谷川俊太郎が参加した。この時、脚本家の菊島隆三にも参加を打診したが、別件とバッティングしたため不参加に終わった。シナリオに於いて市川は、上映時間を3時間以内に収め、全種目の決勝場面を必ず挿入するということを留意点に、執筆作業を進めた。しかし3時間内に全種目を上映する事はすぐに不可能と判明し、全競技種目をABCの3ランクに分類して、撮影の優先度を選別し、全体の流れを聖火リレーから始めて、選手入場→開会式→2週間の競技実施→閉会式、と大まかな段取りをつけた上で、データ収集と意見集約を行い、シナリオに活かした。

スタッフの人選は全て市川が行い、美術顧問に亀倉雄策、監督に小説家の安岡章太郎、写真家の細江英公や東松照明などの顔ぶれが集まった。肩書はプロデューサー補であるが、市川と同じ東宝出身のベテラン監督である谷口仟吉も加わっている。これ以外は、映画作りについて主要メンバーが素人同然であるため、客観的な意見が必要と考え、監修として映画評論家の南部圭之助を起用した。また予算に関しては、圧倒的に撮影用のフィルムが不足すると考えた市川は、プロデューサーの田口と共に、国会の予算委員会へ赴いて、予算の増額を要望し、2億4千万円から3億9千万円に増額されたものの、それでも足りないと考えて企業タイアップを考案、国策映画であるため資金提供は不可という制約上、コカ・コーラ社やオリベッティなど各社から撮影フィルムを無償提供して貰うことで、その謝礼として、劇中に選手がコーラを飲む場面や、オリベッティ製のタイプライターを映すといった、コマーシャル場面を挿入する演出を付け加えることにした。

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