愛と死の記憶

愛と死の記憶 (1966)

One morning, Kazue is nearly knocked over by a motorbike in front of an instrument store, breaking all the records that she was carrying. The two connect instantly and begin seeing each other every day. However, Iwai, Yukio’s foster parent, is concerned - Yukio had been exposed to the atomic bomb when he was four years old and had been showing symptoms of atomic radiation, hospitalizing him in the Genbaku Atomic Bomb Survivor’s Hospital. Unfortunately, nobody knows when the symptoms may return. When Yukio passes out from anemia during work, he decides to part with Kazue. A couple of days later, Yukio tells her of his destiny at the Hiroshima Peace Memorial Park, but Kazue passionately encourages him.

公開日
1966-09-17
TMDB
9.0 / 10 (1)
上映時間(分)
1時間32分
ジャンル
ドラマ
監督
蔵原惟繕

キャスト

豆知識

『愛と死の記録』 は、1966年製作の日本映画。映倫番号14618・モノクロ・日活スコープ・92分・昭和41年度芸術祭参加作品。

製作

吉永小百合・浜田光夫コンビによる日活の純愛&青春映画路線は大成功し、1964年の『愛と死をみつめて』は4億7500万円と日活創業以来の大ヒットを記録した。本作は題名からも分かるように、二匹目のドジョウを狙い企画された。しかし浜田光夫がクランクイン直前に不幸な事故で、急遽新人・渡哲也を代役に立て製作された。

渡哲也・吉永小百合初の共演作で、渡にとっては初めての文芸作品、かつ初めての大役抜擢だった。

オリジナル脚本だが、実話を基にしている。吉永は「大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』の中で紹介されている実話」と話している(ノンクレジット)。

浜田光夫の思わぬ負傷で、普通なら製作を延期するところだが、ドル箱路線に大きなヒビが入った日活はすぐに浜田に見切りをつけ、代役に渡哲也を抜擢した。このため撮影所内で血も涙もない日活首脳陣への批判が囁かれた。吉永は1966年7月15日から31日まで大阪フェスティバルホールで、労音主催のリサイタルを終え、1966年8月5日から広島ロケに入る予定だったが、「長年のコンビの浜田さんが失明するかどうかという一生の危機にあるとき、代役の人と組むのは感情が許さない」と難色を示し、広島ロケを目前にして吉永が「出演を延ばして」と日活に申し入れた。これに対して日活は封切予定は動かせないと、主役抜きのまま広島の実景ロケを先に始め、吉永には早く出演するようにと催促した。日活は石神清宣伝部長が吉永の説得にあたったが、吉永はその理由以外にも『愛して泣いて突っ走れ』『風車のある街』など直前の主演作があまりヒットせず、21歳になる自分はいつまでも青春スターではいられないのではと不安を抱えていた。

渡哲也も『あなたの命』の撮影で宮城県気仙沼ロケ中だったが、渡も仲の良い浜田がやる気満々だった『愛と死の記録』の代役を自分が受けていいものかと悩み、日活首脳に「浜ヤンが治るまで待ってあげられないのでしょうか」と掛け合ったが聞き入れられず。日活の女王との初共演は嬉しいが、今まで暴れまわって、人と取っ組み合いばかりの芝居をして来たため、心理描写の多い表情の芝居が多い初めての文芸作品が不安で悩んだ。当時の渡は後年のイメージとは違う"のんき坊主"と言われていた。渡りはこの時「逃げ出したい心境であった」という

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